昔はね、子供が病気で死ぬのは珍しくなかった。子供が死ぬと親は大変なショックを受ける。あの子の人生はなんだったんだろうって思うわけです。子供が死ぬかもしれないことを共有している社会では、子供が本気で遊んでいると、このまま遊ばせておこうか、となるんですよ。ほっといてやろうと。この子の人生、いつ終わるかわからないんだから。好きにさせる。僕らが子供の頃は、生命というのは思うようにならないものでした。子供がめったに死ななくなったでしょう。そうすると、子供は大人の予備軍でしかなくなる。これくらいの教育を受ければこれくらいの学校に入って、これくらいの生涯賃金で、老後は……とすべてが将来の準備になってしまう。しかも、暗黙のうちに、自分の生命まで自分のものだと誤解されるようになってしまった。……
今はすべて情報化です。つまり伝達可能なものが主流を占めるということ。伝達可能なものを突き詰めれば、それは本物じゃないコピーです。……しかし現実を見れば、現物はどうしたって同じではない。必ずズレます。そのズレや違いを発見するのが感覚。……動物にも脳はあるけれど、「同じ」にくくる能力はほとんど持たない。感覚だけで生きていますから。感覚が何かといえば、違いがわかるということです。人間が言葉で伝達できるのは、本来は違うかもしれないものを同じものとしてひとくくりにする能力ががるからです。星野さんがやろうとしたことは、その対極にあることでしょう。アラスカで感覚を開いて、言葉になる以前のものを見ようとしたし、聞こうとした人です。だからああいう写真が撮れるんです。こういう質問をしてもいい。「人には伝えられないこと」に人生があるのか、それとも「人に伝えられること」に人生があるのか。ほとんど時間をスマホに使っている人は、「人に伝えられること」が人生だと思ってますよ。それはね、生きそびれることです。……
星野さんがアラスカに行って、フィールドに出かけていって、そこで人に伝えられるかどうかは難しい経験をした。それこそが人生なんですよ、しかも伝えられるかどうかたいへん難しいことを文章にし、写真に撮った。創造性とは、本来そういうことです。
文学というものはもともと、伝達可能性の限界を追っていたものです。「こんなことが伝えられるとは思わなかった」ということを伝えるものだった。それが文学の創造性です。その大事な部分はかなり死んでしまった。……まさかこんなことが人に伝えられるようなものになり得るとは思わなかった、というように言葉が使われるのが本当の言葉の創造性です。もうそれは諦めちゃったんじゃないですか。表現できないことを表現しようとしているとは思っていないと思う。星野さんが表現しようとしたことは、そういう伝達可能性の限界なんですよ。
養老孟司(2016)「星野道夫の世界観を語る」,『BRUTUS』2016年9月号, p.62, マガジンハウス
2017年1月16日月曜日
2017年1月15日日曜日
稲垣足穂:タルホが放つ都会の遊星的郷愁
「 ある夕方
お月様が
ポケットの中へ
自分を入れて
歩いていた 」
稲垣足穂ほどオブジェ的な趣向に徹して、文芸の工芸細工化を試みた作家は、昭和にはいなかった。その趣向は少年期に見聞体験したものに発し、それを独自の文体で磨き上げて別物にまで高めていくところにあった。こうしてプロペラ飛行機、ボギー電車、六月の都会の夜、星の瞬き、天文学、水晶、弥勒菩薩、存在の裏地、半ズボン、パンツ、お尻、男色的スリル、サーカス、壊れた機会、ジオラマ、置き去りのオブジェ、能楽、薄明の妖精たちが、タルホ認定の工芸作品に仕上がっていった。……
あえて思いきって言うのなら、タルホは1923年に『一千一秒物語』を書いたとき、デヴィッド・ボウイの何たるかを先取りしていた。ぼくはそう見てきた。そういう人なのだ。ダダイストや未来派がやりたかったこと、ハイデガーが問いたかったこと、ハイゼンベルクが不確定性原理で説明したかったこと、サイケデリックアートが訴えたいこと、観音寿夫が挑みたかったこと、そんなことはとっくに見通していた。
なぜタルホがそういう人でありえたのかといえば、まったくお金や名誉と無縁であり、自分のことを口腔から校門に向かってチューブが通っている円筒人間にすぎないとみなし、少年も文芸も官能もできるかぎり抽象的であるべきだと確信していたからだった。そして、どんな美しさも「フラジャイルで儚いもの」として表現することを選んできた。
最近の日本では、やたらに浮ついたグローバルな人材が期待されているようだが、ぼくは、あの三島由紀夫・土方巽・澁澤龍彦にとって”聖者”であった稲垣足穂こそが、都会のシルエットをまるごと遊星的郷愁とみなせるグローバルな感性の持ち主だったと言いたい。
松岡正剛(2016)「BOOKWARE 」,『SANKEI EXPRESS』2016年1月24日, p.12, 産経新聞社
お月様が
ポケットの中へ
自分を入れて
歩いていた 」
稲垣足穂ほどオブジェ的な趣向に徹して、文芸の工芸細工化を試みた作家は、昭和にはいなかった。その趣向は少年期に見聞体験したものに発し、それを独自の文体で磨き上げて別物にまで高めていくところにあった。こうしてプロペラ飛行機、ボギー電車、六月の都会の夜、星の瞬き、天文学、水晶、弥勒菩薩、存在の裏地、半ズボン、パンツ、お尻、男色的スリル、サーカス、壊れた機会、ジオラマ、置き去りのオブジェ、能楽、薄明の妖精たちが、タルホ認定の工芸作品に仕上がっていった。……
あえて思いきって言うのなら、タルホは1923年に『一千一秒物語』を書いたとき、デヴィッド・ボウイの何たるかを先取りしていた。ぼくはそう見てきた。そういう人なのだ。ダダイストや未来派がやりたかったこと、ハイデガーが問いたかったこと、ハイゼンベルクが不確定性原理で説明したかったこと、サイケデリックアートが訴えたいこと、観音寿夫が挑みたかったこと、そんなことはとっくに見通していた。
なぜタルホがそういう人でありえたのかといえば、まったくお金や名誉と無縁であり、自分のことを口腔から校門に向かってチューブが通っている円筒人間にすぎないとみなし、少年も文芸も官能もできるかぎり抽象的であるべきだと確信していたからだった。そして、どんな美しさも「フラジャイルで儚いもの」として表現することを選んできた。
最近の日本では、やたらに浮ついたグローバルな人材が期待されているようだが、ぼくは、あの三島由紀夫・土方巽・澁澤龍彦にとって”聖者”であった稲垣足穂こそが、都会のシルエットをまるごと遊星的郷愁とみなせるグローバルな感性の持ち主だったと言いたい。
松岡正剛(2016)「BOOKWARE 」,『SANKEI EXPRESS』2016年1月24日, p.12, 産経新聞社
「いのり」と「ねがひ」
「いのり」が抽象だとすれば、「ねがひ」は具体である。「いのり」が無人称であるとすれば、「ねがひ」は人称的である。「いのり」がプロフェッショナルだとすれば、「ねがひ」はどこかアマチュア的だ。
松岡正剛(年号不明)「百辞百物百景——コンセプト・ジャパン100 071 希(ねが)う」『週刊ポスト』小学館
松岡正剛(年号不明)「百辞百物百景——コンセプト・ジャパン100 071 希(ねが)う」『週刊ポスト』小学館