近代人と同様に、ランも、永続的な「支え」や特殊な環境がなければ、存続してはいけないだろう。だいいち、もう光合成を捨ててしまって、腐植土のうえで菌類のような生活をしているものさえいる。生物のヒエラルキーの高位に到達したランは、人間と同様に、安易につくという危険に脅かされているのだ。つまり、植物学者が「寄生的退行」と呼び、道徳家が「居候的生活」と呼んでいるような傾向だ。……
要するにランは、熱帯林や、地中海地方のガリッグや、アルプスの芝草型草原や、スカンンジナビアという、さまざまに異なる環境で生活するためにいかに適応するかという、ぼくらと同じ問題をかかえている。エネルギーの均衡と食性を問いなおす、クロロフィルの喪失のような重大な事故には、いかに対処したらよいか?いかにしたら、セックスパートナーの特殊化と貞節から受けるあきらかな恩恵を維持しながらも、いずれは致命的なものになりかねない完全な依存状態に陥らないでいられるだろうか?どうしたら、個体数を調整し、バースコントロールをして、無制限な繁殖をまぬがれることができるか?いかにしたら、ぼくらが既得権と呼んでもよいようなそれ以前の進歩をたえず疑問に付す、不幸な退行的傾向を避けることができるだろうか?ランたちは、これほどたくさんの問題に答えざるをえなかったし、これほどたくさんの挑戦に応じてこざるをえなかったのだ。
ジャン=マリー・ペルト(1995)『恋する植物』(ベカエール直美訳)p.44-46, 工作舎.