天文学的一群は、世俗的事柄とは没交渉で、だからこそ、非人間的な題目の上にも没頭出来るというものです。その点、天文学者はどこか芸術家と共通しています。二十世紀最大の数学者とも云われているヒルベルトは、ある時、人から「彼はどうして数学者にならずに、詩人になってしまったのでしょうか」と訊ねられて、「たぶん数学者になるには想像力が欠けていたのでしょう」と答えたと云います。……
凡そ現世的な事柄に対して、常に不幸な、且つきわめて贅沢な関係に置かれているのでなければ、何人も、ある対象を一般人とは全く別様に眺めるなどいうことは出来ません。ましてそれを美的に、抽象的に、それともアイロニカリーに表現するなんて思いもよらない話でしょう。この作業に携わるための資格としては、人間的に意味における貧しさと寂寥、一般現実性への失格、迎合的な自己再編成への断念等々が要請されます。こうして自ら悲惨でないための手段は、さしあたり芸術に没頭することです。しかし、現実としての芸術の営みは、その長所よりもむしろ欠点の方が目立ち易い。これに我慢が出来なくて彼らは、敢て自ら選んだ「人なき道」にあっても、詩歌にはたよらないで、数学的記号を採用したのだと考えられます。……天体を相手にするのは、各自の選択及び決意性にもとづくことであり、これによって彼は、天文学以外の諸可能性を排除して、あえて自身を宿命の下に置きます。日常性に対して虚無的にあるほど人は童話の天文学者になりがちです。シバの女王から去ったバルタザールが櫓(やぐら)にこもって、星の研究に耽るではありませんか!でも彼は、以後では、酒盃など手にしなかったことでしょう。……
モーツァルトは、作曲のための条件をゲーテから質問されて、「程良いごちそうの夕食後の散策」を挙げています。Z項で有名な木村栄博士は、晩酌と宝生流の謡曲を愉しんでおられたと聞いています。天文学には、このように何か無政府的性格があります。神経質でもいい、やりッ放しでもいい。只欠くことの出来ないのは根気でしょう。……
僕はある時、天文年鑑を披いていて、各国の彗星発見者が申し合わしたように夭折していることを知って、不思議な気持に襲われました。……これらは一体何事でしょう。初めて望遠鏡を天体に向けたガリレオの晩年の失明と合わせて、すべてこれらは、許されざる界域を敢て窺ったがための懲罰でしょうか?僕は次のようにみたいのです。天文学者のある者には、常人が夢にも知らない遼遠な消息に触れることがあるのだと。ーーそういうわけだから、もしも彼らの生涯が何かオッドな、不幸な、孤立したものだと考える者がいたとすれば、それは飛んでもないことだ。天文学者らがそれを意識していたかどうかは別として、ともかくある恵まれた短時間中にあっては、未来的な、言説に絶した或者への凝視のために、彼らの心境は澄んで、悠々たるものがあったのでなければならない。「それは偉い学者か哲人の耳にしか聞えない」とピタゴラス派が言っている天体の諧音を、彼らは聴いたのです。
稲垣足穂(1979)『僕の“ユリーカ”』p.19-41, 第三文明社.