2016年9月12日月曜日

憑依:偽装的な他者との共感

最後に、もう一つ魂の脱植民地化に有害な精神の働きについて自らの経験から得たものを付け加えたい。それは「憑依」という概念である。ただし、ここでいう「憑依」とは、シャーマニズムのように、他者や死者、他の生命や神の精神を宿すという概念とは異なり、コミュニケーションする相手、あるいは理解しようとする他者の感情になぞらえて自己の中でシュミレートすることをいう。……しかし、この作業は、真に自らの魂を通わせて、他者との共感を達成しているのではなく、自分自身の魂に蓋をして、偽装的に他者の心の動きをなぞろうとするもので、その過程にはいくつもの危険が潜んでいる。そもそもここでいう「憑依」は魂が他の魂の動きをなぞって、わかったつもりになるのであるが、真に自由な魂は、予測不可能であり、なぞることなどできない。……一見、寛容に見える「他者理解」はこの誤った手法で行われている場合が少なくない。つまり、他者との共感や共存は、決して自分の身体を外装的自己や擬似的な他者の心の動きに譲り渡すのではなく、あくまで自分自身の魂を、自分の身体にしっかりと宿らせ、自分自身がこの身体と精神を有する主体であることをしっかりと認識した上で、はじめて可能となるのである。これについても、私自身がこれまで行ってきた他者理解の手法は、他者を自分自身の身体の上でなぞる行為を通じて、より深く他者に共感し、他者の痛みを理解しようという「過剰適応」であった。……自らの精神による自分自身の魂の長期にわたる「疎外」によって、その魂が本来宿るはずの身体は徐々に硬直化し、全身がコリや冷えによって実際に鎧をまとったようになっていた。何度か、致命的な体調不良を繰り返し、ついにこのままでは続かないということを悟って、自らの身体と精神に本格的に向き合う。その治療過程で出会ったのは、自分自身が自分自身の身体という場を得て存在している、ということへの認識を持つこと(フルフォード 1996、訳書 1997)、そして、他者の心の動きに過剰に憑依したり、自己の行動や判断を他者の反応に委ねることは、自分自身の魂の尊厳の放棄であり、自らの身体と魂を傷つける行為である、と認識することであった。私が通ったクリニックの精神科医は私の治療期間の約一年半、ほとんど何もコメントを挟まなかったが、唯一、「あなたはあなた。それ以上でもそれ以下でもない。できることはできるし、できないことはできない。他人の気持ちを考えてもその人は本当にそう思っているかどうかわからないのでやってもしょうがない」というメッセージを送り続けた。

 深尾葉子(2012)『魂の脱植民地化とは何か』(叢書 魂の脱植民地化 1) p.53-55, 青灯社.