東洋民族——その中に日本人も含めての、民族の物の見方は、いつもその物の二つに分れぬさきに、目を着けるのである。あるいは物の内側から見ると言ってもよい。この見方は欧米民族のとまったく違う。二つに分れてからは、能所の分別があり、主客の対立がある。分れぬ先には無分別があり、非対立がある。この世界では、それゆえに、言語文字を第二義として、それ以前に踏み入ることを第一とする。そのようなことが可能かと尋ねるのが、普通一般の世界である。禅の仕事は、この不可能を可能ならしむるところにある。ゆえに禅では「不立(ふりゅう)文字」と言って、対立の世界から飛び出すことを教える。しかし人間としては、飛び出しても、また舞い戻らぬと話が出来ぬので、言葉の世界に還る。還るには還るが、一遍飛び出した経験があれば、言語文字の会し方が以前とは違う。すべて禅録は、このようにして読むべきである。
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.10, ちくま文庫.