2016年9月18日日曜日

インド人の仏教表現:豊かな想像力による比喩、中国との比較

そこで、概略的にいえば、中国人はまず何よりも、もっとも実際的な国民であるが、他方、インド人は、空想的でかつ高度に思弁的である。……インド人は分析に精妙で、目もくらむばかりの詩的飛翔をなす。中国人は大地生活の子である。かれらは黙々として歩む。……実際的であるとは、ある意味では、歴史的であることを意味し、時の進行を観察して時が後に残した跡を記すことである。中国人は、偉大な記録者であることを誇ってよい——インド人が時の観念を欠いているのと、よい対照である。……中国人は多くの点で偉大である。かれらの建築はまことに見事である。かれらの文学的業績は、世界の感謝を受けるに値する。しかし論理は、かれらの得意とするところではない。哲学、および想像力もまた然りである。仏教がはじめて中国に紹介された時、そのインド独特の語法と比喩とは、中国人の心を呆然とさせたに違いない。いくつもの頭や腕を持った神々を見るがよい——かれらの頭にはついぞ浮かんだことのないものであった。事実、これはインド人以外のどの国民の頭にも浮かんだことはなかった。……しかし、インド人は、きわめて斬新な方法を見出し、分析的推理を当てはめることのできない哲学的真理を、それによって解明した。かれらは、奇跡や超自然的現象によって説明を行ったのである。こうして、かれらは仏陀を一大魔術師にした。……われわれは、仏陀にこのような魔術的はなれわざを行わせた大乗仏教者たちの動機を理解しなければならない。それは、人間の知性に許された普通の方法では道理上不可能なことを、比喩によって解明することであった。

 鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.99-105, ちくま文庫.