伝説は、今までかなり久しいあいだ、子供ばかりを聞き手にして話されておりました。もっとも大人もわきにいて聞いてはいるのですが、たいていはおさらいをするおりがないために、子供のようにながく記憶して、ずっと後になってからまたほかの人に話してやるほどに、熱心にはならなかったのであります。……どんな老人のおしえてくれる伝説にも、かならずある時代の児童が関係しております。そうしてもし児童が関係をしなかったら、日本の伝説はもっと早くなくなるか、またはおもしろくないものばかり多くなっていたにちがいないのであります。……書物には大人に聞かせるような話、大人が珍しがるような話が多いのでありますが、今ではこのなかからでないと、昔の児童の心持ちを、知ることはできぬようになりました。国がぜんたいにまだ年が若く、誰でも少年のごとくいきいきとした感じをもって、天地万物をながめていた時代が、かつて一度は諸君のあいだにばかり、つづいていたこともありました。書物はまわりまわってそれを今、ふたたび諸君に語ろうとしているのであります。……日本は昔から、児童が神に愛せられる国でありました。道祖(さえ)も地蔵もこの国にわたってきてから、おいおいに少年の友となったのは、まったくわれわれの国風にかぶれたのであります。子安姫神の美しく尊いもとのお力がなかったら、代々の児童が快活に成長して、集まってこの国を大きくすることもできなかったごとく、児童がたのしんで多くの伝説をおぼえていてくれなかったら、人と国土との因縁は、今よりもはるかにうすかったかもしれません。その大きな功労にくらべるときは、私のこの一冊の本はまだあまりに小さい。今に出てくる日本の伝説集はもっとおもしろく、またいつまでも忘れることのできぬような、もっとりっぱな学問の書でなければなりません。
柳田国男(1969)『日本の伝説』 p.152-171, 角川学芸出版.