2016年10月24日月曜日

禅における「生」:目的論的意識、相対の世界を一切越えたところにある自由

実用主義が、真理の実用上の有効性、すなわち、われわれの行為の有目的性に訴えるのに対し、禅は働きに何の目的も持たぬこと、つまり目的論的意識を離れることを強調する。禅独自の表現によれば、人がその生を生きつつ、あとに何の跡も残さぬことである。……目的論は、時間、相対性、因果関係、道徳等々の世界に属する言葉であるが、禅は、かかる制約を一切越えたところに生きる。野の百合、空の鳥が、聖なる生命の栄光を証しするためにだけ生きるかぎり、かれらは目的を持たぬ生を生きている。人間とて同じことである。おのれの身長に一尺を加えようとはせずに生きる時、何を着、何を食わんと明日のことを思いわずらわずに生きる時、そして一日の苦労はその日一日で足れりとする時、このような生は、空の鳥や野の百合のそれと同じように、栄光に満ちたものではなかろうか。このような生こそ、神がわれらに生きよと望んだ生ではなかろうか。すなわち、一切の目的論的思いわずらいや、人間の分別による複雑さから解き放たれた生である。……禅が実存主義と袂を分かつところはどこか。さまざまな色合の実存主義があるが、どれもみな、次のように考える点で一致している。すなわち有限なる人間は、神から無限に離れている。そしてまた「行手に拡がる可能性の海は恐怖を呼ぶ。可能性は自由を意味する。そして、かぎりない自由は、耐えがたい責任を意味する。*」[*「哲学・東と西」第一号、一(一九五一年四月)四四ページ。]禅はこのような思想とは無縁である。なぜならば、禅にとっては、有限はすなわち無限である。時間はそのまま永遠である。人は神と別ではない。……禅はそれ自身が自由そのものであるがゆえに、かぎりない自由を享受する。責任がいかにはてしなく、耐えがたかろうとも、禅はまるで何も負っていないかのようにそれを負う。……キルケゴールは恐怖を説いた時、いささか神経質で、かつ病的であった。かれは、自分が神から離れていることを異常なまでに感じ、それで恐怖のとりこになった。そしてこれが、”タタター”(如)の体験から生まれる自由の意味を十分に理解する妨げとなった。実存主義者は、たいてい相対の世界で自由を解釈するが、もっとも高い意味での自由はそこにはない。自由は、”タタター”およびその体験に関するものとしてのみ語り得る。実存主義者は、”タタター”の深淵をのぞき込んで身震いする。そして名状しがたい恐怖に捉われる。禅は、かれに言うであろう。「なぜ、深淵の只中に飛び込んで、そこに何があるかを見ないのか」と。宿命的な利己主義の考えが、ついにかれが虎穴に飛び込むのを引き止めてしまうのである。

 鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.175-178, ちくま文庫.

2016年10月15日土曜日

意識のレベル:知識を受け入れるための段階

人生の中で、貴重な知識に出会い、その知識が人生を開くということが時にある。これは、意識がその次元にまで到達可能な段階に達したがゆえに、その知識は彼の魂に繋がったのだ。どんなに多くの情報が周囲にあろうとも、意識レベルがそれを受け入れ可能な次元に達しない限りは、魂はその認証を自らの制御によって拒絶し続けるのであり、時には自身の認証領域外にある真実でないものを真実と認識してしまうのである。こうした状況に出会うのは、それ以前の段階で、意識の次元がその情報レベルに近づいているのだ。

 千賀一生(2010)『ガイアの法則』 p.259, 徳間書店.