実用主義が、真理の実用上の有効性、すなわち、われわれの行為の有目的性に訴えるのに対し、禅は働きに何の目的も持たぬこと、つまり目的論的意識を離れることを強調する。禅独自の表現によれば、人がその生を生きつつ、あとに何の跡も残さぬことである。……目的論は、時間、相対性、因果関係、道徳等々の世界に属する言葉であるが、禅は、かかる制約を一切越えたところに生きる。野の百合、空の鳥が、聖なる生命の栄光を証しするためにだけ生きるかぎり、かれらは目的を持たぬ生を生きている。人間とて同じことである。おのれの身長に一尺を加えようとはせずに生きる時、何を着、何を食わんと明日のことを思いわずらわずに生きる時、そして一日の苦労はその日一日で足れりとする時、このような生は、空の鳥や野の百合のそれと同じように、栄光に満ちたものではなかろうか。このような生こそ、神がわれらに生きよと望んだ生ではなかろうか。すなわち、一切の目的論的思いわずらいや、人間の分別による複雑さから解き放たれた生である。……禅が実存主義と袂を分かつところはどこか。さまざまな色合の実存主義があるが、どれもみな、次のように考える点で一致している。すなわち有限なる人間は、神から無限に離れている。そしてまた「行手に拡がる可能性の海は恐怖を呼ぶ。可能性は自由を意味する。そして、かぎりない自由は、耐えがたい責任を意味する。*」[*「哲学・東と西」第一号、一(一九五一年四月)四四ページ。]禅はこのような思想とは無縁である。なぜならば、禅にとっては、有限はすなわち無限である。時間はそのまま永遠である。人は神と別ではない。……禅はそれ自身が自由そのものであるがゆえに、かぎりない自由を享受する。責任がいかにはてしなく、耐えがたかろうとも、禅はまるで何も負っていないかのようにそれを負う。……キルケゴールは恐怖を説いた時、いささか神経質で、かつ病的であった。かれは、自分が神から離れていることを異常なまでに感じ、それで恐怖のとりこになった。そしてこれが、”タタター”(如)の体験から生まれる自由の意味を十分に理解する妨げとなった。実存主義者は、たいてい相対の世界で自由を解釈するが、もっとも高い意味での自由はそこにはない。自由は、”タタター”およびその体験に関するものとしてのみ語り得る。実存主義者は、”タタター”の深淵をのぞき込んで身震いする。そして名状しがたい恐怖に捉われる。禅は、かれに言うであろう。「なぜ、深淵の只中に飛び込んで、そこに何があるかを見ないのか」と。宿命的な利己主義の考えが、ついにかれが虎穴に飛び込むのを引き止めてしまうのである。
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.175-178, ちくま文庫.