コンティンジェンシー(contingency)という英語は日本語による説明が難しいのだが、とりあえずは「そこに偶発する別様の可能性」というふうに思っておいていただきたい。正確には「そこに偶有されていた別様の可能性の発現」というべきなのだが、ともかくも”別様”というニュアンスが重要なのだ。……システムにとって重要なことは、それが閉鎖系か開放系であるかということにある。生命や社会がつくりあげたシステムの多くは開放系である。開放系のシステムには、なんらかの情報がそのシステムの内外を必ず出入りするという特徴がある。出入りしているだけでなく、システムはそういう情報をつかって自身を自己組織化したり自己編集化する。……このような自己組織化がすすむうちに、システムに「ゆらぎ」が生じて、その構成要素が自律的な創発力を発揮することがある。そういう創発の場はしばしば「カオスの淵」などと呼ばれた。ルーマンは社会や組織の多くが、本来は自律的で自己産出的なものであろうとみなし、そこにはマトゥラナやヴァレラが言うオートポイエーシスなはたらきが主導していると見た。オートポイエーシスとは自律的な生成力のことをいう。システムは全体としてのシステムの維持だけではなく、どこかで新たなサブシステムのようなものを自律的に”分出”しているはずだとみなしたのだ。……
偶然や偶発を存在の周辺やシステムの内外の境界に秘めているのがコンティンジェンシーなのである。コンティンジェンシーには「偶然」とともに「生起」もかかわっているのだ。リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』のなかで、われわれの社会には「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」が同時多発的にかかわっているとみなし、その衰退や摩滅が世界から真の連帯を殺いでいくと見通した。そして、「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」のありようこそが、今後の社会と個人の行動と意識に新たな可能性をもたらすのではないかとみなした。ぼくは、この見方に大きく加担する。社会も個人も「別様性」をもっていなくてどうするのかということだ。ただし、よくよく理解しておいてほしいのだが、これはオルタナティブなオプションを用意しておくということではない。システムや個人の内部に発現の可能性があるということだ。受精卵に針でつついた刺激があると、そこから別様の発生や分化がおこることを高校生物の授業で習った記憶があると思うけれど、まさにそういう内部発生型の別様可能性なのである。……
……認知言語学者のドナルド・デイヴィッドソンは、コンティンジェンシーを理論的に扱うには「パッシング・セオリー」(つかのまの理論)のようなものがきっと必要になるだろうと提案した。炯眼だった。コンティンジェンシーや「偶然のいたずら」の様子は、たしかに「つかのま」の様子をあらわす感覚的な要因によって扱うしかないようなところがあるからだ。パッシングなものとは何か。ひらめき、つまずき、脇見、乱用、誤用、とっさの発言、らしさ、思いつき、ニュアンスのはこび、ひょんな沈黙……などなどがパッシングなものだ。これらは一つひとつではときにノイズや接続詞や役立たずなもののようであるが、あるときこれらが急に組み合わさって、その場のコンティンジェンシーを成立させていく。
松岡正剛&イシス編集学校(2015)『共読する方法の学校 インタースコア』p.92-102, 春秋社