……今日の社会は「リスクを恐れる社会」になっているということだ。……それがしだいに個人のレベルにまでおよんでいる。スマホやグーグル検索を活用することを咎めたいのではない。そこに情報と知識が充填されていると思いこんで、ついつい自分で選択したり思考したりしているつもりが、そうではなくなっていってしまうことに懸念がある。とりわけ「思考のリスク」を冒すことを怖がっている。……セーフティネットはどんなことにも必要だ。ところがそんなことをしているうちに、本来は「安全の分配」のつもりがいつのまにか「リスクの分配」になり、もともとは「富の分配」をするつもりが気がついたらすっかり「リスクの分配」ばかりをする社会になってきた。……現代社会のシステムは、国家であれ企業であれ、国際機関であれ自治体であれ、みずからのシステム維持のためのコストが嵩みすぎて、新たな創発性を発揮できなくなっている。……ルーマンやローティは、これはシステムに出入りする「意味」が多重性や多様性をもてなくなってきたからだとみなし、外の現象の介入がインディケーター(因子)になりすぎているからだと解釈した。……
どんな社会システムにも、そこには相互作用と鏡像作用と相補作用がおこっている。小学校の教室が一年たつごとにかわっていくプロセスを見ればわかるように、この三つの作用は、意味を「まねる」「うつす」「わたす」を繰り返していくうちにおこっていく。世阿弥の稽古哲学もこの「まねる」「うつす」「わたす」をあきらかにした。けれどもここにリスクのメモリを入れ込み、リスクヘッジのしくみをいちいち入れていくと、三つの作用がどんどんフラットになっていく。外からのインディケーターを入れすぎると、そうなっていく。いわゆる”縛り”というものだ。それを法令で縛ればコンプライアンスになる。コンプライアンスの”縛り”が内部化されていくと、どうなるか。フラットになるだけではない。システム内のフローのどこにでもおこりうるはずだった「別様の可能性」や「創発の契機」といった可能性が摩滅していってしまうのだ。……「警戒しすぎてチャンスを失う」ということはスポーツや仕事に付きもののことであるはずなのに、社会的にはそれができなくなっているのだ。……せっかくのチャンスもオケージョンもオポチュニティも、個人の機会から遠のいていく。もっと大きな問題なのは、こんなことをしていては異質性をことごとく排除してしまう社会意識や個人意識ばかりがはびこっていくということである。ここは見方を変える必要がある。こうしてここに登場してくるのがコンティンジェントな見方なのだ。
松岡正剛&イシス編集学校(2015)『共読する方法の学校 インタースコア』p.92-100, 春秋社