2017年2月23日木曜日

自然と道徳:自然のなかで生きる人間の役目

フェティシズムというのは、性欲を自然の対象からそらして他のものに向ける、リビドーの逸脱のことだ。といっても自然は、目的を、つまりここでは受粉を達成するや、逸脱なんかに用はなくなる。自然は、「自然の法則」——結婚における生殖を目的とした男女の結びつき——に一致したと見なされるもの以外はあらゆる性の表現を非難する、かつての道徳家の一見論理的な論法を、背面から攻撃しているわけだ。それに、重箱の隅の隅までほじくるような道徳専門家の決疑論者たちに、自然なものとそうでないものとを区別する才があるなどとは、信用できるものではない。

そもそも自然は、自分にとってまったく意味をなさないそんな微妙な区別など気にもしないだろう。自然が発明するものはみな、当然ながら自然なものなのだから。そのうえ、自然の想像力には限りがないので、自然的なものの領域にも限界がない。あらゆる可能性のあいだに、たとえば、ビクトリア王朝的諸時代にもてはやされた厳格な態度が生む危険と、退廃期(デカダンス)につきものの腐敗の危険とのあいだに、最良の均衡を見いだすことこそ、人間の役目なのだ。各人が、何が自分にとって良いことで、しかも他人にとっても悪くないことかを、自覚せねばならない。自然にはうまい口実があり、そのおかげで、あらゆる態度、あらゆる経験、あらゆる大胆さ……さらにはあらゆるエゴイスムを正当化できる。だからといって自然は、人間が、精神と心と肉体の、つねに危うく、つねに脅かされた調和のなかで、また、その風習や文化の豊かな多様性のなかで、賢明に自らを築きあげてゆくことを免除したりはしないだろう。

 ジャン=マリー・ペルト(1995)『恋する植物』(ベカエール直美訳)p.30-31, 工作舎.

2017年2月6日月曜日

才能・能力とは:モノから「引き出す」力

一錐、二鉋、三釿。どう読むだろうか。一キリ、二カンナ、三チョウナと読む。チョウナは手斧のことをいう。この順に数奇屋大工は道具をものにしていくという教えやコツをあらわした言葉だ。……道具は手につたわる重さによって出来がちがうというのだ。……しかしカンナひとつにも多様な刃が工夫されていて、いまは写真に並んでいるような台カンナばかりが知られているが、たとえば槍カンナと棹カンナではまったく別物のようなのだ。それを大工は鮮やかに使いこなしていったのだ。

そこに業物(わざもの)が生まれる。名人・達人・鉄人がこよなく偏愛した道具たちである。業物は刀剣も含んだ。そして、そのようにすぐれた道具をもってすぐれた業(わざ)を発揚することを「才能」とか「能力」と言った。「才」とは木材や石才に宿っている力のことを言い、それを引き出す技や業が「能」だったのである。……つまり才能とか能力とかは、アタマやカラダや知能にそなわっているものではなく、素材や道具にそなわっているものを引き出せる仕業のことだったのである。大工道具たちにはその能力がギラリと光っている。

 松岡正剛(年号不明)「百辞百物百景——コンセプト・ジャパン100 022 能力」『週刊ポスト』小学館