フェティシズムというのは、性欲を自然の対象からそらして他のものに向ける、リビドーの逸脱のことだ。といっても自然は、目的を、つまりここでは受粉を達成するや、逸脱なんかに用はなくなる。自然は、「自然の法則」——結婚における生殖を目的とした男女の結びつき——に一致したと見なされるもの以外はあらゆる性の表現を非難する、かつての道徳家の一見論理的な論法を、背面から攻撃しているわけだ。それに、重箱の隅の隅までほじくるような道徳専門家の決疑論者たちに、自然なものとそうでないものとを区別する才があるなどとは、信用できるものではない。
そもそも自然は、自分にとってまったく意味をなさないそんな微妙な区別など気にもしないだろう。自然が発明するものはみな、当然ながら自然なものなのだから。そのうえ、自然の想像力には限りがないので、自然的なものの領域にも限界がない。あらゆる可能性のあいだに、たとえば、ビクトリア王朝的諸時代にもてはやされた厳格な態度が生む危険と、退廃期(デカダンス)につきものの腐敗の危険とのあいだに、最良の均衡を見いだすことこそ、人間の役目なのだ。各人が、何が自分にとって良いことで、しかも他人にとっても悪くないことかを、自覚せねばならない。自然にはうまい口実があり、そのおかげで、あらゆる態度、あらゆる経験、あらゆる大胆さ……さらにはあらゆるエゴイスムを正当化できる。だからといって自然は、人間が、精神と心と肉体の、つねに危うく、つねに脅かされた調和のなかで、また、その風習や文化の豊かな多様性のなかで、賢明に自らを築きあげてゆくことを免除したりはしないだろう。
ジャン=マリー・ペルト(1995)『恋する植物』(ベカエール直美訳)p.30-31, 工作舎.