「君、それは容易ならぬ労働だ。はねつるべといわれるのを、君はまだ聞いていないか。それを使うと、今の仕事などは、立ちどころに出来てしまう。それを使いたまえ。」
これを聞いたお百姓さんは、
「それは、どんなものか。」
と尋ねた。そこで子貢は、その構造を説明して、よくわかるようにしてやった。お百姓いわく、
「それは、わしも知らぬことはない。しかし機会というものを使うと、機心というものが出る。それは力を省いて、功を多くしようとする心持だ。わしはそれが嫌だ。結果を考えて仕事をやるということは、功利主義である。この考えが胸中に浮かぶと、心の純粋性が乱れる。これは道に反する。ものに制せられるということは、わしの好まぬところだ。」……
近代文明が、滔滔として、オートメーション時代に向かって驀進しつつあるとき、はねつるべの話は、大分、縁遠いようである。が、この話のうちに、東洋的なるものと西洋的なるものとの交渉が潜んでいることを忘れてはならぬ。……
法則・機械・必至・圧迫などという一連の思想、そうして、これと正反対の思想……人間・創造・自由・遊戯自在、これらが、どういうふうに協調していけるか、あるいは、また、どうしても協調していけぬか。自殺か、自活か。これがいろいろの形で、歴史の上に現れてくる。近代は、これが、ことに著しい厳しさをもって、われらに臨んできている。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.136-139, 岩波文庫.