地獄は集苦の停留所といわれるが、認識論的に見れば、言語・文字・分別・意識・概念・分析の隠所にほかならぬ。人間が自分で造り自身で行くところなのである。他人に罰せられて、罪の償いをする監獄ではないのである。……
極楽というは、言語・分別などいうものが、それぞれに適当な役割を果たして、それ以外の領域に侵入することをせぬようになり、そこではじめて安心のできる家郷が見つかる、それを極楽という。もしこれに反して、極楽が仏典に説くようなところであったらば、それはむやみに分別をすてよというので、人間は一日もいたたまれぬ。……
極楽往来の人々は、往生の刹那にまた娑婆に来るか、地獄の真中にとび込んで、いたずらなる分別の、苦悩に煩わされ、日夜に責められる精神病者の救済に、没頭するのである。そうしてこの地獄なるのも、娑婆以外に存在しない、娑婆そのものの又の名でしかないのだ。極楽の永住の土では、決して決してないのである。
それからまた知っておかなければならぬのは、文字や分別の世界を超越するところに、極楽があるように考える人も多かろう。すなわち娑婆を遠ざかること、西方十万奥土に極楽が在ると思い定める人もあろう。が、この超越とか、隔絶とかというのは、豎超ではなくて、横超であることを忘れてはならぬ。そうしてこの横なるものは、横ざまに飛び出るの義でなくして、その中に飛び込むの義なることを忘れてはならぬ。……「横」に出るだけでなくして、その横ばいが、直ちにもとの途へ向かい還るのである。……もう一ぺんいいなおせば、元どおり、本具の人間性に還ることである。「還ること」が大事なのである。仏にならないで、仏になりきらないで、もとの凡夫になることである。禅者のいう「平常心是道」である。それは何かといえば、飢えては食らい、渇しては飲むことである。疲れたら寝て、起きたら働くことである。……
大人は小児の心を失わずといい、また天国は赤子のごとくにして、始めて入ることを許されるというが、それはただの赤子になるのではない、大人の赤子である。分別を具えた無分別である。迷い迷いての後に出来た、大人の赤子である、古桶の底を抜いてしまってからの赤子である。……極楽参りをなしおえたものは、ただのこのままのものでない。地獄へも天堂へも、大手をふって出入自在底の無依(むえ)の閑道人(かんどうにん)である。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.91-93, 岩波文庫.