2017年4月23日日曜日

限界芸術と妙好人:果てしない反復による民芸の美

限界芸術にたいする関心が、宗教とむすびついて発展するもう一つの例を、柳宗悦の思想に見ることができる。……仏教への関心は、妙好人への関心を中心とする。僧侶ではなく信心のあつい平信徒としての妙好人は、どんなあつかいを世間からうけてもよろこんでうけいれ、いつもたのしく毎日をくらしている。彼は、他人を批判する権利をすて、自分の個人的意志をはたらかすことのないような無心な生き方をしている。このような妙好人の信仰が、もっともすぐれた雑器を生みだす。すぐれた雑器をつくる職人たちについて書く文章は、妙好人について書く文章とほとんと同じことを言っている。

「彼等は多く作らねばならぬ。このことは仕事の限りなき繰返しを求める。同じ形、同じ模様、果しもないその反復。だがこの単調な仕事が、酬(むく)いとしてそれ等の作をいや美しくする。かかる反復は拙き者にも、技術の完成を与える。長い労力の後には、どの職人とてもそれぞれに名工である。その味なき繰返しに於て、彼等は技術をすら越えた高い域に進む。彼等は何事をも忘れつつ作る。……そこに見られる美は驚くべき熟練の所産である。それを一日で酵(かも)された美と思ってはならぬ。あの粗末な日々の用品にも、その背後には多くの歳月と、飽くことなき労働と、味けない反復とか潜んでいる。粗末に扱われる雑具にも、技術への全き支配と離脱とがある。よき作が生れないわけにゆかぬ。彼等の長い労働が美を確実に保証しているのである。」(柳宗悦「工芸の美」一九二七年)

 鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』p.39-47, ちくま学芸文庫