この妙という字も今は女へんを書くが、昔の字をみると玄へんで玅と書いてある。そこでこの妙という字は元は玄という字と関係があったのではないか。語原学的にも玄という字の意味を調べなくてはならないが、天地玄黄などといって天は黒く地は黄色というが、玄という字には黒いということではなしに、「かすかである」という意味、天が黒いというのではなく、天は遠くしてかすかで、なんだか見分けがつかない、すなわちあれこれと形容のつかぬものをいうのではないか。……さらに前にあげた妙という字も、これといってきちんと指定できる形を持ったものではなく、いうにいわれぬ、なんだか曖昧模糊のうちに何か感ずるものがある。それを妙といいたい。……
妙というやつはこの無意識から出る。その無意識は阿頼耶識(あらやしき)をも突き破ったものである。心理学的な無意識から出るのでなくして、形而上学的無意識から出る。そこに妙がある。……さらにいうならば、無意識ということは、無我でありその無我から妙が出てくる。それは妙な言葉の使い方かもしれないが、形而上学的感情でいうと何か知的なものが入るようになるから、形而上学的感覚といったほうがよいかもしれんが、怒ったとか、笑ったとか、泣いたとかいうようなこと、すなわち感情にはまだ我が入っている。笑う、怒るというときには、何かそこに突き当たるものがなければいけない。感覚というと、痒いなら痒い、痛いなら痛いといってすぐ手をひっこます、ということには我が入っていない。……
そこで美術のほうについてこのことをいってみると、芸術ではテクニックということをいうが、そのテクニックでも、単にテクニックだけではだめで、その熟練がいくらあっても妙というものはそこから出てこない。そこにやはり形而上学的無意識というものが働かんといかん。そこから出るものを妙と、こういうが、柳君の美というものも、そこから出てきたものでなければ美といえないのではないか。……よく芸術家はそのものになりきれという。これは西洋でもいうが、いわゆる芸術家なるものは、なかなかそのものになりきれないという。そのテクニックに、とらわれ過ぎる点が多いのではないかと思われるが、それを乗り越えないと、本当の美が出てこないのではないか。その点いわゆる芸術家の作品よりは、そういうものを意識しない民芸的なものに、かえって無意識の表現の可能性を、よけいもっていると思うし、妙の働きが見える。一本の線を引いてもちょっと手をあげても、指さしても、そこに妙が出てくる。妙は指そのものにあるのでなくして、指なら指、手なら手をあげたところの裏に、ひそんでいるものを、手を通して、指を通してみるろころに在るのである。……本当の美にはある意味ではteleology(目的論)があってはいけないんで、目的があったらその意識がくっついて出るから我というものが出る。そうすると妙は出てこない。……
また禅で仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺すとか、仏様を殺して犬に喰わせてしまえなどというが、これは symbol を壊せということなのだ。美術のほうでもいろいろと symbolize しているわけだから、その symbol を壊してしまい、その壊したその上に超 symbol を見ればよいのだが、とにかく一ぺんは symbol を壊さなければいかん、そしてその上にものを見る。……そこで柳君は美という字を使っているが、私はこの妙という字が、なにか東洋的なものの真髄を現しているように思えるし、仏教でほかに不可得とか難思議などといってみるが、それではどうも知的な臭いが残るので、そういう言葉より、妙のほうが何も考えないで、そして積極的ないい表し方ではないかと思う。……
近頃バイブルを見ていて、ふと左の句に突き当たった。
"And God saw everything that he had made, and, behold, it was very good."(創世記、第一章)
この平凡な very good が「妙」である。このグッドは善悪の善でもなく、好醜の好でもない。すべての対峙をはなれた絶対無比、それ自身においてある姿そのものなのである。「妙」はこれに外ならぬ。雲門のいわゆる「日日是好日」の好である。またエクハルトの "Every morning is good morning" の good である。またこれを「平常心是道」ともいう。この最も平常なところに、最も「妙」なるものがあるのではないか。……
眼で見て耳で聞く、何の不思議もないわけだが、そうでない、大いに不思議がある。それは不可得底だ。ここにめざめなくてはならぬ。言語学や解釈学や論理学や哲学というものは、この不思議ならざる、平常底にほかならぬ。感覚や知性の裏づけをしている不思議・不可得・無所得・究竟地––自分はこれを妙という––ここに契合するところがなくてはならぬ。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.100-106, 120, 岩波文庫.