私にとって『かたち』とは、一口にいえば『物とその集まり』であるともいえようか。『物』とは、たとえば円とか正方形とか平行線などの、もはや人間の生活にはまり込んでしまったかに思われる日常的な形態をさす。これらの素朴な形態のなかにかつて人間がこめた信仰が失われ、幾何形態がその存在理由を失いかけたとき、同時に人間はその視点を新しい世界に向けてひろげていた。そして、われわれの視点がより微視や巨視の世界にはいりこむとき、意外にも、生命の根源として群がりいきづいているそれらの『物』たちを、再び見いだしたのだ。空気のようにまといつくあの日常性は、より微細な底深い次元で、新しい人間的なものへの契機をはらんでいたのである。
しかし私には、それらの『物』たちを一つだけとり出し『かたち』としてながめることには興味がない。たちまち、死んだ物と化してしまうからだ。集合体のなかで、同質の他のものとの断層を観察することにこそ、意味があると思うからだ。
単なる細胞たちが異なる有機体を構築するように、個体差を形成する根源的なものの探究。逆に、個性的な微妙に変化するそれらの『物』たちが共存し、闘争しあうダイナミズムーーこの二つの間をさまようことが私の課題である。
私にとって『かたち』とは、とどまることを知らぬこの循環作用の、瞬間的な定着なのである。
臼田捷治(2010)『杉浦康平のデザイン』p.76-77, 平凡社