2017年9月30日土曜日

東洋の「自然」:一元的な「そのまま・あるがまま」

自分は漢学者でないので、決定的な話はできぬが「自然」のはじめて用いられたのは、老子の『道徳経』で「道は自然に法(のっと)る」とある。この「自然」は「自(おのずか)ら然る」の義で、仏教者のいう「自然法爾(じねんほうに)」である。他からなんらの拘束を受けず、自分本具のものを、そのままにしておく、あるいはそのままで働くの義である。松は松のごとく、竹は竹のごとくで、松と竹と、各自にその法位に往するの義である。……

西洋のネイチュアには「自然」の義は全くないといってよい。ネイチュアは自己(セルフ)に対する客観的存在で、いつも相対性の世界である。「自然」には相対性はない、また客観的でない。むしろ主体的で絶対性をもっている。「自己本来に然り」という考えの中には、それに対峙して考えられるものはない。自他を離れた自体的、主体的なるもの、これを「自然」というのである。それで道は自然に法りて存するというのである。

西洋のネイチュアは二元的で「人」と対峙する、相剋する、どちらかが勝たなくてはならぬ。東洋の「自然」は「人」をいれておる。離れるのは「人」の方からである。「自然」にそむくから、自ら倒れて行く。それで自分を全うせんとするには「自然」に帰るより外にない。帰るというのは元の一になるというの義である。

「自然」の自は他と対峙の自ではない。自他の対峙を超克した自である。主客相対の世界での「自然」でない。そこに東洋の道がある。

 鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.217-218, 岩波文庫.