王陽明だったか誰だか忘れたが、三軍の賊を破っても、自分の心の中にある賊は中々に破れるものではないと……、その通りだ。自分の心の底に潜匿して居る慾火を打ち消し、何事も力で解決しようとする我執の念を吹き飛ばすことの不能な間は、役に立たぬ、下らぬ口をきくものではあるまい。……
それよりも、この有限の世界に居て、無限を見るだけの創造的想像力を持つようにしなくてはならぬ。この種の想像力を、自分は、詩といって居る。この詩がなくては、散文的きわまるこの生活を、人間として送ることは不可能だ。……
……それを、労働者が手を動かし、足を動かすというところを関係づけて、そこにポエジィを見ることができたら、まあ、労働者は助かるですね。これを日本にあてて考えてみると、俳句というものがある。俳句をやる人はそこに詩情を見て、十七文字にまとめることができるだろうと思うですね。そうすると、大工さんがコンコンやっておる、鉋(かんな)でけずる、というところに十七文字の詩情がわけば、この普通の労働、この機械的な反復のほかに、いちいちの鉋の動き、鋸の動きに、いうにいわれぬ詩情、今のポエジィを感ずるとすると、これだけの仕事を何時間やって、どれだけの給料をもらうんだという、交換条件を何も入れないでですね、ただ、こうやっておることだけに妙を感じて、十七文字で表現することのできるものを、手足を動かす人が感じられたら、その労働の世界というものは、まったく変わってしまうだろうと思うです。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.238-242, 岩波文庫.
※本文では「妙」に傍点あり