芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである。もう少しむずかしく言いかえるならば、芸術とは、美的経験を直接的につくり出す記号であると言えよう。ここでさらに、美的経験とは何か、が問題になる。結論から先に言えば、美的経験とは、もっとも広くとれば、直接価値的経験(それじしんにおいて価値のある経験)とおなじひろがりをもつものと考えられる。一つの例をあげて言うと、直接価値的経験とは、労働をとおして食費をかせぐという間接価値的経験の結果えられた「食事をする」という経験である。……
それにしても、飯を食うという行為は、美的経験だろうか。……すでにデューイの私的しているように、毎日の経験の大部分は美的経験としてたかまってゆかない。このために、美的経験としてとくに高まって行く経験だけを、狭い意味での美的経験と呼ぶことにする。……美的経験として高まってゆき、まとまりをもつということは、その過程において、その経験をもつ個人の日常的な利害を忘れさせ、日常的な世界の外につれてゆき、休息をあたえる。また、経験の持主の感情が、その鑑賞しつつある対象に移されて対象の中にあるかのように感じられる。……
依然として、美的経験は、かなりひろい領域をもっている。われわれの毎日のもつ美的経験の大部分は、芸術作品とは無関係にもたれるものと言ってよい。部屋の中を見るとか、町並を見るとか、空を見るとかによって生じる美的経験のほうが、展覧会に行って純粋に芸術作品と呼ばれる絵を見ることで生じる美的経験よりも大きい部分を占める。日本の家の構造ではラジオの流行歌やドラマがひっきりなしに入ってくるから、これらの大衆芸術作品による美的経験はかなり大きい部分を占めるとしても、やはり友人や同僚の声、家族の人の話などのほうがより大きな美的経験であろう。
鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』p.10-13, ちくま学芸文庫