王陽明だったか誰だか忘れたが、三軍の賊を破っても、自分の心の中にある賊は中々に破れるものではないと……、その通りだ。自分の心の底に潜匿して居る慾火を打ち消し、何事も力で解決しようとする我執の念を吹き飛ばすことの不能な間は、役に立たぬ、下らぬ口をきくものではあるまい。……
それよりも、この有限の世界に居て、無限を見るだけの創造的想像力を持つようにしなくてはならぬ。この種の想像力を、自分は、詩といって居る。この詩がなくては、散文的きわまるこの生活を、人間として送ることは不可能だ。……
……それを、労働者が手を動かし、足を動かすというところを関係づけて、そこにポエジィを見ることができたら、まあ、労働者は助かるですね。これを日本にあてて考えてみると、俳句というものがある。俳句をやる人はそこに詩情を見て、十七文字にまとめることができるだろうと思うですね。そうすると、大工さんがコンコンやっておる、鉋(かんな)でけずる、というところに十七文字の詩情がわけば、この普通の労働、この機械的な反復のほかに、いちいちの鉋の動き、鋸の動きに、いうにいわれぬ詩情、今のポエジィを感ずるとすると、これだけの仕事を何時間やって、どれだけの給料をもらうんだという、交換条件を何も入れないでですね、ただ、こうやっておることだけに妙を感じて、十七文字で表現することのできるものを、手足を動かす人が感じられたら、その労働の世界というものは、まったく変わってしまうだろうと思うです。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.238-242, 岩波文庫.
※本文では「妙」に傍点あり
2017年9月30日土曜日
やわらぎ
やわらぎは生の感覚である。生命は柔らかなものに宿る。死は、こわばる、直線になる、不思議の力はもはやそこから出なくなる、見ただけのものでしかない。……
やわらぎということが、日本人全体の性格でないかと思うのである。十七条憲法の「以和為貴」の「和」は“やわらぎ”であって“わ”ではない。わというと何かその頃の政治的背景を聯想させるようなものがあるが、あるいはそれもあったかも知れぬが、仮名づけはやわらぎであってわではない。太子は仏教徒で、仏教徒の趣味はやわらぎであるから、三宝を篤敬せられる太子は自らやわらぎを第一とせられたのではなかろうか。……
女の作った仮名文学の性格はやわらぎで尽きている。漢字の硬いのに比べると比較にならぬほど柔軟性に富んでいる。日本の気候は湿気で支配されているというが、気候だけではない、日本の自然の景物は何れもそのせいで、一種の潤いと柔かさをもっている。日本人の性格はこれに養われて出来た点が多いと思う。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.232-234, 岩波文庫.
※本文では「やわらぎ」「わ」に傍点あり、読みやすさのため一部に“”を使用
やわらぎということが、日本人全体の性格でないかと思うのである。十七条憲法の「以和為貴」の「和」は“やわらぎ”であって“わ”ではない。わというと何かその頃の政治的背景を聯想させるようなものがあるが、あるいはそれもあったかも知れぬが、仮名づけはやわらぎであってわではない。太子は仏教徒で、仏教徒の趣味はやわらぎであるから、三宝を篤敬せられる太子は自らやわらぎを第一とせられたのではなかろうか。……
女の作った仮名文学の性格はやわらぎで尽きている。漢字の硬いのに比べると比較にならぬほど柔軟性に富んでいる。日本の気候は湿気で支配されているというが、気候だけではない、日本の自然の景物は何れもそのせいで、一種の潤いと柔かさをもっている。日本人の性格はこれに養われて出来た点が多いと思う。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.232-234, 岩波文庫.
※本文では「やわらぎ」「わ」に傍点あり、読みやすさのため一部に“”を使用
古いものへの親しみ:人間は「過去」から出て来る
新しいものには何もなく、かどがとれぬ。時代を経るということは、とげとげしさを消磨させる意味になる。古いというただその事実が、その物に対して何かしら親しみを覚えさせる。人間は「過去」から出て来るのであるから、自らその出処に対するあこがれを持つ。未来に対してもあこがれを持つが、まだ踏みも見ぬ天の橋立で、一種の危惧がある、これが希望である。過去には危惧はない、とにかく通って来たので、このあこがれには望みはないが親しみはある。……
新しいものには奥行がない、何もかも目に見えるだけである。古いものは、これに反して、深味を持っている。この深味に不思議がある、この不思議が人の魂を引きつける。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.230-231, 岩波文庫.
新しいものには奥行がない、何もかも目に見えるだけである。古いものは、これに反して、深味を持っている。この深味に不思議がある、この不思議が人の魂を引きつける。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.230-231, 岩波文庫.
東洋の「自然」:一元的な「そのまま・あるがまま」
自分は漢学者でないので、決定的な話はできぬが「自然」のはじめて用いられたのは、老子の『道徳経』で「道は自然に法(のっと)る」とある。この「自然」は「自(おのずか)ら然る」の義で、仏教者のいう「自然法爾(じねんほうに)」である。他からなんらの拘束を受けず、自分本具のものを、そのままにしておく、あるいはそのままで働くの義である。松は松のごとく、竹は竹のごとくで、松と竹と、各自にその法位に往するの義である。……
西洋のネイチュアには「自然」の義は全くないといってよい。ネイチュアは自己(セルフ)に対する客観的存在で、いつも相対性の世界である。「自然」には相対性はない、また客観的でない。むしろ主体的で絶対性をもっている。「自己本来に然り」という考えの中には、それに対峙して考えられるものはない。自他を離れた自体的、主体的なるもの、これを「自然」というのである。それで道は自然に法りて存するというのである。
西洋のネイチュアは二元的で「人」と対峙する、相剋する、どちらかが勝たなくてはならぬ。東洋の「自然」は「人」をいれておる。離れるのは「人」の方からである。「自然」にそむくから、自ら倒れて行く。それで自分を全うせんとするには「自然」に帰るより外にない。帰るというのは元の一になるというの義である。
「自然」の自は他と対峙の自ではない。自他の対峙を超克した自である。主客相対の世界での「自然」でない。そこに東洋の道がある。
西洋のネイチュアには「自然」の義は全くないといってよい。ネイチュアは自己(セルフ)に対する客観的存在で、いつも相対性の世界である。「自然」には相対性はない、また客観的でない。むしろ主体的で絶対性をもっている。「自己本来に然り」という考えの中には、それに対峙して考えられるものはない。自他を離れた自体的、主体的なるもの、これを「自然」というのである。それで道は自然に法りて存するというのである。
西洋のネイチュアは二元的で「人」と対峙する、相剋する、どちらかが勝たなくてはならぬ。東洋の「自然」は「人」をいれておる。離れるのは「人」の方からである。「自然」にそむくから、自ら倒れて行く。それで自分を全うせんとするには「自然」に帰るより外にない。帰るというのは元の一になるというの義である。
「自然」の自は他と対峙の自ではない。自他の対峙を超克した自である。主客相対の世界での「自然」でない。そこに東洋の道がある。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.217-218, 岩波文庫.
2017年9月4日月曜日
かたち:物を形成する有機体の共存、その瞬間的定着
私にとって『かたち』とは、一口にいえば『物とその集まり』であるともいえようか。『物』とは、たとえば円とか正方形とか平行線などの、もはや人間の生活にはまり込んでしまったかに思われる日常的な形態をさす。これらの素朴な形態のなかにかつて人間がこめた信仰が失われ、幾何形態がその存在理由を失いかけたとき、同時に人間はその視点を新しい世界に向けてひろげていた。そして、われわれの視点がより微視や巨視の世界にはいりこむとき、意外にも、生命の根源として群がりいきづいているそれらの『物』たちを、再び見いだしたのだ。空気のようにまといつくあの日常性は、より微細な底深い次元で、新しい人間的なものへの契機をはらんでいたのである。
しかし私には、それらの『物』たちを一つだけとり出し『かたち』としてながめることには興味がない。たちまち、死んだ物と化してしまうからだ。集合体のなかで、同質の他のものとの断層を観察することにこそ、意味があると思うからだ。
単なる細胞たちが異なる有機体を構築するように、個体差を形成する根源的なものの探究。逆に、個性的な微妙に変化するそれらの『物』たちが共存し、闘争しあうダイナミズムーーこの二つの間をさまようことが私の課題である。
私にとって『かたち』とは、とどまることを知らぬこの循環作用の、瞬間的な定着なのである。
臼田捷治(2010)『杉浦康平のデザイン』p.76-77, 平凡社
しかし私には、それらの『物』たちを一つだけとり出し『かたち』としてながめることには興味がない。たちまち、死んだ物と化してしまうからだ。集合体のなかで、同質の他のものとの断層を観察することにこそ、意味があると思うからだ。
単なる細胞たちが異なる有機体を構築するように、個体差を形成する根源的なものの探究。逆に、個性的な微妙に変化するそれらの『物』たちが共存し、闘争しあうダイナミズムーーこの二つの間をさまようことが私の課題である。
私にとって『かたち』とは、とどまることを知らぬこの循環作用の、瞬間的な定着なのである。
臼田捷治(2010)『杉浦康平のデザイン』p.76-77, 平凡社