限界芸術にたいする関心が、宗教とむすびついて発展するもう一つの例を、柳宗悦の思想に見ることができる。……仏教への関心は、妙好人への関心を中心とする。僧侶ではなく信心のあつい平信徒としての妙好人は、どんなあつかいを世間からうけてもよろこんでうけいれ、いつもたのしく毎日をくらしている。彼は、他人を批判する権利をすて、自分の個人的意志をはたらかすことのないような無心な生き方をしている。このような妙好人の信仰が、もっともすぐれた雑器を生みだす。すぐれた雑器をつくる職人たちについて書く文章は、妙好人について書く文章とほとんと同じことを言っている。
「彼等は多く作らねばならぬ。このことは仕事の限りなき繰返しを求める。同じ形、同じ模様、果しもないその反復。だがこの単調な仕事が、酬(むく)いとしてそれ等の作をいや美しくする。かかる反復は拙き者にも、技術の完成を与える。長い労力の後には、どの職人とてもそれぞれに名工である。その味なき繰返しに於て、彼等は技術をすら越えた高い域に進む。彼等は何事をも忘れつつ作る。……そこに見られる美は驚くべき熟練の所産である。それを一日で酵(かも)された美と思ってはならぬ。あの粗末な日々の用品にも、その背後には多くの歳月と、飽くことなき労働と、味けない反復とか潜んでいる。粗末に扱われる雑具にも、技術への全き支配と離脱とがある。よき作が生れないわけにゆかぬ。彼等の長い労働が美を確実に保証しているのである。」(柳宗悦「工芸の美」一九二七年)
鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』p.39-47, ちくま学芸文庫
2017年4月23日日曜日
「妙」ということ
「妙」ということについては、去年の夏ハワイで東西哲学者会のあったときに話したことでもあるが、柳君は美ということをいうが、私のほうでは妙といいたい。この妙ということが東洋思想というか、東洋感情というか、そういう東洋的なものをもっともよく現していると思う。……
この妙という字も今は女へんを書くが、昔の字をみると玄へんで玅と書いてある。そこでこの妙という字は元は玄という字と関係があったのではないか。語原学的にも玄という字の意味を調べなくてはならないが、天地玄黄などといって天は黒く地は黄色というが、玄という字には黒いということではなしに、「かすかである」という意味、天が黒いというのではなく、天は遠くしてかすかで、なんだか見分けがつかない、すなわちあれこれと形容のつかぬものをいうのではないか。……さらに前にあげた妙という字も、これといってきちんと指定できる形を持ったものではなく、いうにいわれぬ、なんだか曖昧模糊のうちに何か感ずるものがある。それを妙といいたい。……
妙というやつはこの無意識から出る。その無意識は阿頼耶識(あらやしき)をも突き破ったものである。心理学的な無意識から出るのでなくして、形而上学的無意識から出る。そこに妙がある。……さらにいうならば、無意識ということは、無我でありその無我から妙が出てくる。それは妙な言葉の使い方かもしれないが、形而上学的感情でいうと何か知的なものが入るようになるから、形而上学的感覚といったほうがよいかもしれんが、怒ったとか、笑ったとか、泣いたとかいうようなこと、すなわち感情にはまだ我が入っている。笑う、怒るというときには、何かそこに突き当たるものがなければいけない。感覚というと、痒いなら痒い、痛いなら痛いといってすぐ手をひっこます、ということには我が入っていない。……
そこで美術のほうについてこのことをいってみると、芸術ではテクニックということをいうが、そのテクニックでも、単にテクニックだけではだめで、その熟練がいくらあっても妙というものはそこから出てこない。そこにやはり形而上学的無意識というものが働かんといかん。そこから出るものを妙と、こういうが、柳君の美というものも、そこから出てきたものでなければ美といえないのではないか。……よく芸術家はそのものになりきれという。これは西洋でもいうが、いわゆる芸術家なるものは、なかなかそのものになりきれないという。そのテクニックに、とらわれ過ぎる点が多いのではないかと思われるが、それを乗り越えないと、本当の美が出てこないのではないか。その点いわゆる芸術家の作品よりは、そういうものを意識しない民芸的なものに、かえって無意識の表現の可能性を、よけいもっていると思うし、妙の働きが見える。一本の線を引いてもちょっと手をあげても、指さしても、そこに妙が出てくる。妙は指そのものにあるのでなくして、指なら指、手なら手をあげたところの裏に、ひそんでいるものを、手を通して、指を通してみるろころに在るのである。……本当の美にはある意味ではteleology(目的論)があってはいけないんで、目的があったらその意識がくっついて出るから我というものが出る。そうすると妙は出てこない。……
また禅で仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺すとか、仏様を殺して犬に喰わせてしまえなどというが、これは symbol を壊せということなのだ。美術のほうでもいろいろと symbolize しているわけだから、その symbol を壊してしまい、その壊したその上に超 symbol を見ればよいのだが、とにかく一ぺんは symbol を壊さなければいかん、そしてその上にものを見る。……そこで柳君は美という字を使っているが、私はこの妙という字が、なにか東洋的なものの真髄を現しているように思えるし、仏教でほかに不可得とか難思議などといってみるが、それではどうも知的な臭いが残るので、そういう言葉より、妙のほうが何も考えないで、そして積極的ないい表し方ではないかと思う。……
近頃バイブルを見ていて、ふと左の句に突き当たった。
"And God saw everything that he had made, and, behold, it was very good."(創世記、第一章)
この平凡な very good が「妙」である。このグッドは善悪の善でもなく、好醜の好でもない。すべての対峙をはなれた絶対無比、それ自身においてある姿そのものなのである。「妙」はこれに外ならぬ。雲門のいわゆる「日日是好日」の好である。またエクハルトの "Every morning is good morning" の good である。またこれを「平常心是道」ともいう。この最も平常なところに、最も「妙」なるものがあるのではないか。……
眼で見て耳で聞く、何の不思議もないわけだが、そうでない、大いに不思議がある。それは不可得底だ。ここにめざめなくてはならぬ。言語学や解釈学や論理学や哲学というものは、この不思議ならざる、平常底にほかならぬ。感覚や知性の裏づけをしている不思議・不可得・無所得・究竟地––自分はこれを妙という––ここに契合するところがなくてはならぬ。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.100-106, 120, 岩波文庫.
地獄と極楽:”自ら” 往来するところ
地獄は集苦の停留所といわれるが、認識論的に見れば、言語・文字・分別・意識・概念・分析の隠所にほかならぬ。人間が自分で造り自身で行くところなのである。他人に罰せられて、罪の償いをする監獄ではないのである。……
極楽というは、言語・分別などいうものが、それぞれに適当な役割を果たして、それ以外の領域に侵入することをせぬようになり、そこではじめて安心のできる家郷が見つかる、それを極楽という。もしこれに反して、極楽が仏典に説くようなところであったらば、それはむやみに分別をすてよというので、人間は一日もいたたまれぬ。……
極楽往来の人々は、往生の刹那にまた娑婆に来るか、地獄の真中にとび込んで、いたずらなる分別の、苦悩に煩わされ、日夜に責められる精神病者の救済に、没頭するのである。そうしてこの地獄なるのも、娑婆以外に存在しない、娑婆そのものの又の名でしかないのだ。極楽の永住の土では、決して決してないのである。
それからまた知っておかなければならぬのは、文字や分別の世界を超越するところに、極楽があるように考える人も多かろう。すなわち娑婆を遠ざかること、西方十万奥土に極楽が在ると思い定める人もあろう。が、この超越とか、隔絶とかというのは、豎超ではなくて、横超であることを忘れてはならぬ。そうしてこの横なるものは、横ざまに飛び出るの義でなくして、その中に飛び込むの義なることを忘れてはならぬ。……「横」に出るだけでなくして、その横ばいが、直ちにもとの途へ向かい還るのである。……もう一ぺんいいなおせば、元どおり、本具の人間性に還ることである。「還ること」が大事なのである。仏にならないで、仏になりきらないで、もとの凡夫になることである。禅者のいう「平常心是道」である。それは何かといえば、飢えては食らい、渇しては飲むことである。疲れたら寝て、起きたら働くことである。……
大人は小児の心を失わずといい、また天国は赤子のごとくにして、始めて入ることを許されるというが、それはただの赤子になるのではない、大人の赤子である。分別を具えた無分別である。迷い迷いての後に出来た、大人の赤子である、古桶の底を抜いてしまってからの赤子である。……極楽参りをなしおえたものは、ただのこのままのものでない。地獄へも天堂へも、大手をふって出入自在底の無依(むえ)の閑道人(かんどうにん)である。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.91-93, 岩波文庫.
極楽というは、言語・分別などいうものが、それぞれに適当な役割を果たして、それ以外の領域に侵入することをせぬようになり、そこではじめて安心のできる家郷が見つかる、それを極楽という。もしこれに反して、極楽が仏典に説くようなところであったらば、それはむやみに分別をすてよというので、人間は一日もいたたまれぬ。……
極楽往来の人々は、往生の刹那にまた娑婆に来るか、地獄の真中にとび込んで、いたずらなる分別の、苦悩に煩わされ、日夜に責められる精神病者の救済に、没頭するのである。そうしてこの地獄なるのも、娑婆以外に存在しない、娑婆そのものの又の名でしかないのだ。極楽の永住の土では、決して決してないのである。
それからまた知っておかなければならぬのは、文字や分別の世界を超越するところに、極楽があるように考える人も多かろう。すなわち娑婆を遠ざかること、西方十万奥土に極楽が在ると思い定める人もあろう。が、この超越とか、隔絶とかというのは、豎超ではなくて、横超であることを忘れてはならぬ。そうしてこの横なるものは、横ざまに飛び出るの義でなくして、その中に飛び込むの義なることを忘れてはならぬ。……「横」に出るだけでなくして、その横ばいが、直ちにもとの途へ向かい還るのである。……もう一ぺんいいなおせば、元どおり、本具の人間性に還ることである。「還ること」が大事なのである。仏にならないで、仏になりきらないで、もとの凡夫になることである。禅者のいう「平常心是道」である。それは何かといえば、飢えては食らい、渇しては飲むことである。疲れたら寝て、起きたら働くことである。……
大人は小児の心を失わずといい、また天国は赤子のごとくにして、始めて入ることを許されるというが、それはただの赤子になるのではない、大人の赤子である。分別を具えた無分別である。迷い迷いての後に出来た、大人の赤子である、古桶の底を抜いてしまってからの赤子である。……極楽参りをなしおえたものは、ただのこのままのものでない。地獄へも天堂へも、大手をふって出入自在底の無依(むえ)の閑道人(かんどうにん)である。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.91-93, 岩波文庫.
機械化と創造性の対立:自殺か、自活か
孔子の弟子の子貢というのが旅行しているとき、一人の農夫が田に働いているのを見つけた。その人は、畠に水をやるのに、掘った井戸へ下りて行って、バケツに水を充たし、それから、それを持ち上げて、畠へ持って行って、野菜に必要な水をやっていた。その都度の労力というものは、並々ならぬのである。子貢は見かねて、そのお百姓さんに語りかけた。
「君、それは容易ならぬ労働だ。はねつるべといわれるのを、君はまだ聞いていないか。それを使うと、今の仕事などは、立ちどころに出来てしまう。それを使いたまえ。」
これを聞いたお百姓さんは、
「それは、どんなものか。」
と尋ねた。そこで子貢は、その構造を説明して、よくわかるようにしてやった。お百姓いわく、
「それは、わしも知らぬことはない。しかし機会というものを使うと、機心というものが出る。それは力を省いて、功を多くしようとする心持だ。わしはそれが嫌だ。結果を考えて仕事をやるということは、功利主義である。この考えが胸中に浮かぶと、心の純粋性が乱れる。これは道に反する。ものに制せられるということは、わしの好まぬところだ。」……
近代文明が、滔滔として、オートメーション時代に向かって驀進しつつあるとき、はねつるべの話は、大分、縁遠いようである。が、この話のうちに、東洋的なるものと西洋的なるものとの交渉が潜んでいることを忘れてはならぬ。……
法則・機械・必至・圧迫などという一連の思想、そうして、これと正反対の思想……人間・創造・自由・遊戯自在、これらが、どういうふうに協調していけるか、あるいは、また、どうしても協調していけぬか。自殺か、自活か。これがいろいろの形で、歴史の上に現れてくる。近代は、これが、ことに著しい厳しさをもって、われらに臨んできている。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.136-139, 岩波文庫.
「君、それは容易ならぬ労働だ。はねつるべといわれるのを、君はまだ聞いていないか。それを使うと、今の仕事などは、立ちどころに出来てしまう。それを使いたまえ。」
これを聞いたお百姓さんは、
「それは、どんなものか。」
と尋ねた。そこで子貢は、その構造を説明して、よくわかるようにしてやった。お百姓いわく、
「それは、わしも知らぬことはない。しかし機会というものを使うと、機心というものが出る。それは力を省いて、功を多くしようとする心持だ。わしはそれが嫌だ。結果を考えて仕事をやるということは、功利主義である。この考えが胸中に浮かぶと、心の純粋性が乱れる。これは道に反する。ものに制せられるということは、わしの好まぬところだ。」……
近代文明が、滔滔として、オートメーション時代に向かって驀進しつつあるとき、はねつるべの話は、大分、縁遠いようである。が、この話のうちに、東洋的なるものと西洋的なるものとの交渉が潜んでいることを忘れてはならぬ。……
法則・機械・必至・圧迫などという一連の思想、そうして、これと正反対の思想……人間・創造・自由・遊戯自在、これらが、どういうふうに協調していけるか、あるいは、また、どうしても協調していけぬか。自殺か、自活か。これがいろいろの形で、歴史の上に現れてくる。近代は、これが、ことに著しい厳しさをもって、われらに臨んできている。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.136-139, 岩波文庫.
2017年4月13日木曜日
シンローグ・ポリローグ的創作:固有の作者の不在
ところが情報論的な世界においては「固有の作者」は成立しにくい。確かに辿っていけば誰がインターネットを作ったのかとか、LINUXのOSは誰が作ったのかとかいった「起源」があるにしても、進化の仕方そのものは一人の神によって管理されているわけではありません。……
こういう創作のあり方を川田順造はかつて「シンローグ」及び「ポリローグ」という概念で説明しました(川田順造「口頭伝承論」(一)『社会史研究』2/日本エディタースクール出版部)。作者が一人で語る「モノローグ」、受け手と対話しながら語る「ディアローグ」に対して「シンローグ」「ポリローグ」では固有の作者はもういません。「シンローグ」とは昔話が人々が集まる座の中で、そこにいる一人一人の即興の語りの相互作用の中で昔話が語られる、というものです。しかし「シンローグ」は座に居あわせた互いに顔見知りの人間たちが彼らが共有している昔話を「再現」するのに対して、「ポリローグ」は、街中や広場において、それぞれが勝手に発話している喧噪状態を言うのです。しかし、その喧噪は無秩序ですが、そこに不定型でゆるやかな一つの物語がやがて生成する可能性もあるのです。かつて川田のこの議論を読んでもぼくはピンときませんでしたが、LINUXのことを知ると、とてもよくわかります。LINUXは「シンローグ」及び「ポリローグ」の水準の「創作」なのです。
大塚英志(2004)『物語消滅論——キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』p.150-151, 角川書店
芳子のシューソカリ:「私であること」の苦悩に対する薬
学生たちによく言うのですが、近代小説を読むと主人公たちが「頭痛がする」とよく言っている。漱石だってずっと「頭が痛い」と言っているだろうと。なんで頭が痛いのかというと要は「私である」ことに悩んでいるからです。先ほどの『蒲団』のヒロイン、芳子なども「神経過敏で、頭脳が痛くって仕方がない時」に飲む「シューソカリ」という薬を持っています。頭痛薬が大量に売られるようになったのはあの時期ですね。荒俣さんのお弟子さんが、そんな研究をしていたはずです。つまり、頭痛薬を飲むと「私であること」の問いがおさまってしまう人もいて、文学を読まなくてはおさまらない人間もいて、しかし「文学」を読んだりだらには書かなければおさまらない人間たちもいた。いってしまえば文学はシューソカリ、今で言ったらソラナックスやディプロメールといった向精神薬みたいなものです。そういった文学の役割をどの小説が果たしていくのか、そこが問題なのだと思います。
大塚英志(2004)『物語消滅論——キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』p.163-164, 角川書店
大塚英志(2004)『物語消滅論——キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』p.163-164, 角川書店
2017年4月8日土曜日
生きている = 水っぽい
生物がなぜ水っぽいかというと、水の中では、化学反応が活発に起こるから。……一方、人工物が乾いているのは、その逆です。化学反応が起こってもらってはこまるからです。湿っていると長持ちせず、すぐに壊れてしまいます。つまり鉄なら錆びるし、木製品なら腐ります。……
生物は水が主成分です。その水がしなやかな膜で包まれたものが生物です。……つまり生物は基本的には水の詰まった皮袋なのであり、水っぽくてプヨプヨとやわらかなのです。……
生物は、外から加わる力に抵抗するに当たって、しなやかさを武器とします。柳に風。竹に雪折れなし。力が加わっていたら、しなやかに変形して、力をいなしてしまいます。……私たちだってそうですね。机の角に引っかかっても、皮膚が変形しますから、するっと通り抜けられます。……ところが人工物はそうではありません。力が加わっても、ほとんど変形せずに、大きな力であれ小さな力であれ、まともにその力に抵抗します。鉄もコンクリートも、皆そうです。……
生きているとは水っぽいということです。そして水っぽければやわらかくしなやかで、自分の力で動きまわったり、まわりの風や流れの力を受けて揺れ動きます。死ねば水気が失われ、硬く動かなくなります。
本川達雄(2011)『生物学的文明論』p.119-128, 新潮社
生物は水が主成分です。その水がしなやかな膜で包まれたものが生物です。……つまり生物は基本的には水の詰まった皮袋なのであり、水っぽくてプヨプヨとやわらかなのです。……
生物は、外から加わる力に抵抗するに当たって、しなやかさを武器とします。柳に風。竹に雪折れなし。力が加わっていたら、しなやかに変形して、力をいなしてしまいます。……私たちだってそうですね。机の角に引っかかっても、皮膚が変形しますから、するっと通り抜けられます。……ところが人工物はそうではありません。力が加わっても、ほとんど変形せずに、大きな力であれ小さな力であれ、まともにその力に抵抗します。鉄もコンクリートも、皆そうです。……
生きているとは水っぽいということです。そして水っぽければやわらかくしなやかで、自分の力で動きまわったり、まわりの風や流れの力を受けて揺れ動きます。死ねば水気が失われ、硬く動かなくなります。
本川達雄(2011)『生物学的文明論』p.119-128, 新潮社