……今日の社会は「リスクを恐れる社会」になっているということだ。……それがしだいに個人のレベルにまでおよんでいる。スマホやグーグル検索を活用することを咎めたいのではない。そこに情報と知識が充填されていると思いこんで、ついつい自分で選択したり思考したりしているつもりが、そうではなくなっていってしまうことに懸念がある。とりわけ「思考のリスク」を冒すことを怖がっている。……セーフティネットはどんなことにも必要だ。ところがそんなことをしているうちに、本来は「安全の分配」のつもりがいつのまにか「リスクの分配」になり、もともとは「富の分配」をするつもりが気がついたらすっかり「リスクの分配」ばかりをする社会になってきた。……現代社会のシステムは、国家であれ企業であれ、国際機関であれ自治体であれ、みずからのシステム維持のためのコストが嵩みすぎて、新たな創発性を発揮できなくなっている。……ルーマンやローティは、これはシステムに出入りする「意味」が多重性や多様性をもてなくなってきたからだとみなし、外の現象の介入がインディケーター(因子)になりすぎているからだと解釈した。……
どんな社会システムにも、そこには相互作用と鏡像作用と相補作用がおこっている。小学校の教室が一年たつごとにかわっていくプロセスを見ればわかるように、この三つの作用は、意味を「まねる」「うつす」「わたす」を繰り返していくうちにおこっていく。世阿弥の稽古哲学もこの「まねる」「うつす」「わたす」をあきらかにした。けれどもここにリスクのメモリを入れ込み、リスクヘッジのしくみをいちいち入れていくと、三つの作用がどんどんフラットになっていく。外からのインディケーターを入れすぎると、そうなっていく。いわゆる”縛り”というものだ。それを法令で縛ればコンプライアンスになる。コンプライアンスの”縛り”が内部化されていくと、どうなるか。フラットになるだけではない。システム内のフローのどこにでもおこりうるはずだった「別様の可能性」や「創発の契機」といった可能性が摩滅していってしまうのだ。……「警戒しすぎてチャンスを失う」ということはスポーツや仕事に付きもののことであるはずなのに、社会的にはそれができなくなっているのだ。……せっかくのチャンスもオケージョンもオポチュニティも、個人の機会から遠のいていく。もっと大きな問題なのは、こんなことをしていては異質性をことごとく排除してしまう社会意識や個人意識ばかりがはびこっていくということである。ここは見方を変える必要がある。こうしてここに登場してくるのがコンティンジェントな見方なのだ。
松岡正剛&イシス編集学校(2015)『共読する方法の学校 インタースコア』p.92-100, 春秋社
2016年11月10日木曜日
コンティンジェンシー(偶発性):社会や個人の持つ、内部からの自律的な創発力
コンティンジェンシー(contingency)という英語は日本語による説明が難しいのだが、とりあえずは「そこに偶発する別様の可能性」というふうに思っておいていただきたい。正確には「そこに偶有されていた別様の可能性の発現」というべきなのだが、ともかくも”別様”というニュアンスが重要なのだ。……システムにとって重要なことは、それが閉鎖系か開放系であるかということにある。生命や社会がつくりあげたシステムの多くは開放系である。開放系のシステムには、なんらかの情報がそのシステムの内外を必ず出入りするという特徴がある。出入りしているだけでなく、システムはそういう情報をつかって自身を自己組織化したり自己編集化する。……このような自己組織化がすすむうちに、システムに「ゆらぎ」が生じて、その構成要素が自律的な創発力を発揮することがある。そういう創発の場はしばしば「カオスの淵」などと呼ばれた。ルーマンは社会や組織の多くが、本来は自律的で自己産出的なものであろうとみなし、そこにはマトゥラナやヴァレラが言うオートポイエーシスなはたらきが主導していると見た。オートポイエーシスとは自律的な生成力のことをいう。システムは全体としてのシステムの維持だけではなく、どこかで新たなサブシステムのようなものを自律的に”分出”しているはずだとみなしたのだ。……
偶然や偶発を存在の周辺やシステムの内外の境界に秘めているのがコンティンジェンシーなのである。コンティンジェンシーには「偶然」とともに「生起」もかかわっているのだ。リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』のなかで、われわれの社会には「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」が同時多発的にかかわっているとみなし、その衰退や摩滅が世界から真の連帯を殺いでいくと見通した。そして、「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」のありようこそが、今後の社会と個人の行動と意識に新たな可能性をもたらすのではないかとみなした。ぼくは、この見方に大きく加担する。社会も個人も「別様性」をもっていなくてどうするのかということだ。ただし、よくよく理解しておいてほしいのだが、これはオルタナティブなオプションを用意しておくということではない。システムや個人の内部に発現の可能性があるということだ。受精卵に針でつついた刺激があると、そこから別様の発生や分化がおこることを高校生物の授業で習った記憶があると思うけれど、まさにそういう内部発生型の別様可能性なのである。……
……認知言語学者のドナルド・デイヴィッドソンは、コンティンジェンシーを理論的に扱うには「パッシング・セオリー」(つかのまの理論)のようなものがきっと必要になるだろうと提案した。炯眼だった。コンティンジェンシーや「偶然のいたずら」の様子は、たしかに「つかのま」の様子をあらわす感覚的な要因によって扱うしかないようなところがあるからだ。パッシングなものとは何か。ひらめき、つまずき、脇見、乱用、誤用、とっさの発言、らしさ、思いつき、ニュアンスのはこび、ひょんな沈黙……などなどがパッシングなものだ。これらは一つひとつではときにノイズや接続詞や役立たずなもののようであるが、あるときこれらが急に組み合わさって、その場のコンティンジェンシーを成立させていく。
松岡正剛&イシス編集学校(2015)『共読する方法の学校 インタースコア』p.92-102, 春秋社
偶然や偶発を存在の周辺やシステムの内外の境界に秘めているのがコンティンジェンシーなのである。コンティンジェンシーには「偶然」とともに「生起」もかかわっているのだ。リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』のなかで、われわれの社会には「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」が同時多発的にかかわっているとみなし、その衰退や摩滅が世界から真の連帯を殺いでいくと見通した。そして、「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」のありようこそが、今後の社会と個人の行動と意識に新たな可能性をもたらすのではないかとみなした。ぼくは、この見方に大きく加担する。社会も個人も「別様性」をもっていなくてどうするのかということだ。ただし、よくよく理解しておいてほしいのだが、これはオルタナティブなオプションを用意しておくということではない。システムや個人の内部に発現の可能性があるということだ。受精卵に針でつついた刺激があると、そこから別様の発生や分化がおこることを高校生物の授業で習った記憶があると思うけれど、まさにそういう内部発生型の別様可能性なのである。……
……認知言語学者のドナルド・デイヴィッドソンは、コンティンジェンシーを理論的に扱うには「パッシング・セオリー」(つかのまの理論)のようなものがきっと必要になるだろうと提案した。炯眼だった。コンティンジェンシーや「偶然のいたずら」の様子は、たしかに「つかのま」の様子をあらわす感覚的な要因によって扱うしかないようなところがあるからだ。パッシングなものとは何か。ひらめき、つまずき、脇見、乱用、誤用、とっさの発言、らしさ、思いつき、ニュアンスのはこび、ひょんな沈黙……などなどがパッシングなものだ。これらは一つひとつではときにノイズや接続詞や役立たずなもののようであるが、あるときこれらが急に組み合わさって、その場のコンティンジェンシーを成立させていく。
松岡正剛&イシス編集学校(2015)『共読する方法の学校 インタースコア』p.92-102, 春秋社
2016年10月24日月曜日
禅における「生」:目的論的意識、相対の世界を一切越えたところにある自由
実用主義が、真理の実用上の有効性、すなわち、われわれの行為の有目的性に訴えるのに対し、禅は働きに何の目的も持たぬこと、つまり目的論的意識を離れることを強調する。禅独自の表現によれば、人がその生を生きつつ、あとに何の跡も残さぬことである。……目的論は、時間、相対性、因果関係、道徳等々の世界に属する言葉であるが、禅は、かかる制約を一切越えたところに生きる。野の百合、空の鳥が、聖なる生命の栄光を証しするためにだけ生きるかぎり、かれらは目的を持たぬ生を生きている。人間とて同じことである。おのれの身長に一尺を加えようとはせずに生きる時、何を着、何を食わんと明日のことを思いわずらわずに生きる時、そして一日の苦労はその日一日で足れりとする時、このような生は、空の鳥や野の百合のそれと同じように、栄光に満ちたものではなかろうか。このような生こそ、神がわれらに生きよと望んだ生ではなかろうか。すなわち、一切の目的論的思いわずらいや、人間の分別による複雑さから解き放たれた生である。……禅が実存主義と袂を分かつところはどこか。さまざまな色合の実存主義があるが、どれもみな、次のように考える点で一致している。すなわち有限なる人間は、神から無限に離れている。そしてまた「行手に拡がる可能性の海は恐怖を呼ぶ。可能性は自由を意味する。そして、かぎりない自由は、耐えがたい責任を意味する。*」[*「哲学・東と西」第一号、一(一九五一年四月)四四ページ。]禅はこのような思想とは無縁である。なぜならば、禅にとっては、有限はすなわち無限である。時間はそのまま永遠である。人は神と別ではない。……禅はそれ自身が自由そのものであるがゆえに、かぎりない自由を享受する。責任がいかにはてしなく、耐えがたかろうとも、禅はまるで何も負っていないかのようにそれを負う。……キルケゴールは恐怖を説いた時、いささか神経質で、かつ病的であった。かれは、自分が神から離れていることを異常なまでに感じ、それで恐怖のとりこになった。そしてこれが、”タタター”(如)の体験から生まれる自由の意味を十分に理解する妨げとなった。実存主義者は、たいてい相対の世界で自由を解釈するが、もっとも高い意味での自由はそこにはない。自由は、”タタター”およびその体験に関するものとしてのみ語り得る。実存主義者は、”タタター”の深淵をのぞき込んで身震いする。そして名状しがたい恐怖に捉われる。禅は、かれに言うであろう。「なぜ、深淵の只中に飛び込んで、そこに何があるかを見ないのか」と。宿命的な利己主義の考えが、ついにかれが虎穴に飛び込むのを引き止めてしまうのである。
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.175-178, ちくま文庫.
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.175-178, ちくま文庫.
2016年10月15日土曜日
意識のレベル:知識を受け入れるための段階
人生の中で、貴重な知識に出会い、その知識が人生を開くということが時にある。これは、意識がその次元にまで到達可能な段階に達したがゆえに、その知識は彼の魂に繋がったのだ。どんなに多くの情報が周囲にあろうとも、意識レベルがそれを受け入れ可能な次元に達しない限りは、魂はその認証を自らの制御によって拒絶し続けるのであり、時には自身の認証領域外にある真実でないものを真実と認識してしまうのである。こうした状況に出会うのは、それ以前の段階で、意識の次元がその情報レベルに近づいているのだ。
千賀一生(2010)『ガイアの法則』 p.259, 徳間書店.
2016年9月30日金曜日
伝説と児童:子供によって語られてきたもの
伝説は、今までかなり久しいあいだ、子供ばかりを聞き手にして話されておりました。もっとも大人もわきにいて聞いてはいるのですが、たいていはおさらいをするおりがないために、子供のようにながく記憶して、ずっと後になってからまたほかの人に話してやるほどに、熱心にはならなかったのであります。……どんな老人のおしえてくれる伝説にも、かならずある時代の児童が関係しております。そうしてもし児童が関係をしなかったら、日本の伝説はもっと早くなくなるか、またはおもしろくないものばかり多くなっていたにちがいないのであります。……書物には大人に聞かせるような話、大人が珍しがるような話が多いのでありますが、今ではこのなかからでないと、昔の児童の心持ちを、知ることはできぬようになりました。国がぜんたいにまだ年が若く、誰でも少年のごとくいきいきとした感じをもって、天地万物をながめていた時代が、かつて一度は諸君のあいだにばかり、つづいていたこともありました。書物はまわりまわってそれを今、ふたたび諸君に語ろうとしているのであります。……日本は昔から、児童が神に愛せられる国でありました。道祖(さえ)も地蔵もこの国にわたってきてから、おいおいに少年の友となったのは、まったくわれわれの国風にかぶれたのであります。子安姫神の美しく尊いもとのお力がなかったら、代々の児童が快活に成長して、集まってこの国を大きくすることもできなかったごとく、児童がたのしんで多くの伝説をおぼえていてくれなかったら、人と国土との因縁は、今よりもはるかにうすかったかもしれません。その大きな功労にくらべるときは、私のこの一冊の本はまだあまりに小さい。今に出てくる日本の伝説集はもっとおもしろく、またいつまでも忘れることのできぬような、もっとりっぱな学問の書でなければなりません。
柳田国男(1969)『日本の伝説』 p.152-171, 角川学芸出版.
柳田国男(1969)『日本の伝説』 p.152-171, 角川学芸出版.
編集とは:創発的な技術、さまざまな物事の関係を見る
編集には、そもそも人間の認知活動から表現活動までが、記憶のしくみから知識の組み立てまでが、また、メディアによる編集のあれこれからコンピュータ・ネットワーク技術による編集までが、ほぼずっぽりふくまれる。……編集の裾野はそれくらい広いのだが、それを一言でいうのなら「コミュニケーションの充実と拡張に関する方法」というものだ。……ただし、編集術は整理術ではない。情報を創発するための技術なのである。創発とは、その場面におよぶと巧まずして出てくるクリエイティビティのようなものをいう。あらかじめ準備しておく編集も大事だが、その場に臨んでますます発揮できる編集力、それが私がいちばん重視する創発的な技術というものだ。……こんなことを書くと結論めくが、編集でいちばん大事なことは、さまざまな事実や事態や現象を別々に放っておかないで、それらの「あいだ」にひそむ関係を発見することにある。そしてこれらをじっくりつなげていくことにある。
松岡正剛(2000)『知の編集術』 p.16-37-46, 講談社.
松岡正剛(2000)『知の編集術』 p.16-37-46, 講談社.
2016年9月18日日曜日
西洋・東洋の視点:鳥的・虫的
ヨーロッパのものの見方は俯瞰的というか鳥的、東洋は虫的です。世界を上から見るか、そのものの中に入っていって世界を感じながら見るかという違いがある。キリストの磔刑(たっけい)というのは俯瞰的で、高みに向かって昇天する瞬間をあらわしたもの。立ったまま死んでゆくわけです。一方、寝釈迦というのは大地に横たわったまま涅槃に入る。釈迦は大地に横たわり、森羅万象が寄り集まる。視線が大地にある。キリストは天に向かう。虫型は触覚的な感じで、俯瞰型は世界を離れて見る客観的、科学的な知性の在り方です。その両方が日本やバリではクロスしている。(大須賀)
杉浦康平・伏見康治・森毅・養老孟司ほか(1993)「対談◎電子時代の身体とアジア——境界線上の舞態論(大須賀勇・布施英利)」『形の文化誌[1]アジアの形を読む』p.149, 工作舎.
杉浦康平・伏見康治・森毅・養老孟司ほか(1993)「対談◎電子時代の身体とアジア——境界線上の舞態論(大須賀勇・布施英利)」『形の文化誌[1]アジアの形を読む』p.149, 工作舎.
仏教(宗教)の定義:限定されない、有機的な精神運動の源
どの宗教でも、長い発展の歴史をもった現存の宗教を批判するたいていの人々が犯す誤りは、それを、そのまま受け入れるべき完成した体系と考えることである。ところが実際は、有機的かつ精神的なものはいずれも——われわれは、宗教をこのようなものと考えるのだが——定規やコンパスで紙の上に描けるような、幾何学的輪郭を持たない。それは、客観的に限定されることを拒否する。なぜならば、これは、その精神の成長に制限を設けることになるからである。かくて、仏教とは何かを知ることは、仏教の生命の中に分け入って、それが歴史の中で客観的に自己を展開するのを内側から理解することであるといえよう。ゆえに仏教の定義は、仏教と呼ばれる精神運動を押し進める生命力の定義でなければならない。……一言でいえば、仏教の生命、ならびに精神を作り上げたものは、仏陀その人の内的生命、ならびに精神にほかならない。仏教は、その教祖の最深最奥の意識のまわりに築かれた建築物である。様式や外部建築の材料は、歴史の進行につれて変るかもしれない。だが、建築物全体を支える仏陀たること(buddhahood)の内的意味は、変ることなくつねに生き続ける。
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.97-98, ちくま文庫.
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.97-98, ちくま文庫.
インド人の仏教表現:豊かな想像力による比喩、中国との比較
そこで、概略的にいえば、中国人はまず何よりも、もっとも実際的な国民であるが、他方、インド人は、空想的でかつ高度に思弁的である。……インド人は分析に精妙で、目もくらむばかりの詩的飛翔をなす。中国人は大地生活の子である。かれらは黙々として歩む。……実際的であるとは、ある意味では、歴史的であることを意味し、時の進行を観察して時が後に残した跡を記すことである。中国人は、偉大な記録者であることを誇ってよい——インド人が時の観念を欠いているのと、よい対照である。……中国人は多くの点で偉大である。かれらの建築はまことに見事である。かれらの文学的業績は、世界の感謝を受けるに値する。しかし論理は、かれらの得意とするところではない。哲学、および想像力もまた然りである。仏教がはじめて中国に紹介された時、そのインド独特の語法と比喩とは、中国人の心を呆然とさせたに違いない。いくつもの頭や腕を持った神々を見るがよい——かれらの頭にはついぞ浮かんだことのないものであった。事実、これはインド人以外のどの国民の頭にも浮かんだことはなかった。……しかし、インド人は、きわめて斬新な方法を見出し、分析的推理を当てはめることのできない哲学的真理を、それによって解明した。かれらは、奇跡や超自然的現象によって説明を行ったのである。こうして、かれらは仏陀を一大魔術師にした。……われわれは、仏陀にこのような魔術的はなれわざを行わせた大乗仏教者たちの動機を理解しなければならない。それは、人間の知性に許された普通の方法では道理上不可能なことを、比喩によって解明することであった。
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.99-105, ちくま文庫.
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.99-105, ちくま文庫.
2016年9月16日金曜日
〈知〉の本質:問う主体を含んだ知の円環運動、真の客観性
何かを知りたいという、人間の本性の作動は、知ろうとする自分自身への問いを必然的に含む。対象への真摯な探求を通じて、自らの真の姿が露呈し、それによって更なる探求が始まる。これが知ることの本質であり、これによって人は成長する。この身体によって実現される運動を我々は「魂」と呼ぶ。この作動の停止するとき、「知」は単なる情報の集積と抽出へと堕落する。記述された情報の明示的操作に、知識の客観性を求めようとする「客観主義」は、魂の弱さの表出に過ぎず、その惰弱が知を堕落させる。対象に関する情報のみを記述し、自らの存在を押し隠すことは、客観性を担保するものではなく、実のところ、自己を傍観者という安全地帯に置く卑怯に過ぎない。この堕落が「魂の植民地化」である。……「魂の脱植民地化」とは、この〈知〉の円環運動の回復にほかならない。それは、対象への問いを通じて自らを厳しく問う不断の過程であり、修養としての学問という、近代によって貶められた、人類社会の普遍的伝統の回復でもある。……そのために必要なことは、問う主体を含んで展開する、対象との応答全体の厳密な記述である。それこそが、読む者にとって有益な、真の意味での「客観的記述」ではあるまいか。
深尾葉子・安冨歩(2012)『叢書 魂の脱植民地化』巻末「刊行のことば」, 青灯社.
深尾葉子・安冨歩(2012)『叢書 魂の脱植民地化』巻末「刊行のことば」, 青灯社.
2016年9月13日火曜日
禅の視点:物の内側の無分別・非対立、言語は二の次
東洋民族——その中に日本人も含めての、民族の物の見方は、いつもその物の二つに分れぬさきに、目を着けるのである。あるいは物の内側から見ると言ってもよい。この見方は欧米民族のとまったく違う。二つに分れてからは、能所の分別があり、主客の対立がある。分れぬ先には無分別があり、非対立がある。この世界では、それゆえに、言語文字を第二義として、それ以前に踏み入ることを第一とする。そのようなことが可能かと尋ねるのが、普通一般の世界である。禅の仕事は、この不可能を可能ならしむるところにある。ゆえに禅では「不立(ふりゅう)文字」と言って、対立の世界から飛び出すことを教える。しかし人間としては、飛び出しても、また舞い戻らぬと話が出来ぬので、言葉の世界に還る。還るには還るが、一遍飛び出した経験があれば、言語文字の会し方が以前とは違う。すべて禅録は、このようにして読むべきである。
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.10, ちくま文庫.
鈴木大拙(1987)『禅』(工藤澄子訳)p.10, ちくま文庫.
2016年9月12日月曜日
憑依:偽装的な他者との共感
最後に、もう一つ魂の脱植民地化に有害な精神の働きについて自らの経験から得たものを付け加えたい。それは「憑依」という概念である。ただし、ここでいう「憑依」とは、シャーマニズムのように、他者や死者、他の生命や神の精神を宿すという概念とは異なり、コミュニケーションする相手、あるいは理解しようとする他者の感情になぞらえて自己の中でシュミレートすることをいう。……しかし、この作業は、真に自らの魂を通わせて、他者との共感を達成しているのではなく、自分自身の魂に蓋をして、偽装的に他者の心の動きをなぞろうとするもので、その過程にはいくつもの危険が潜んでいる。そもそもここでいう「憑依」は魂が他の魂の動きをなぞって、わかったつもりになるのであるが、真に自由な魂は、予測不可能であり、なぞることなどできない。……一見、寛容に見える「他者理解」はこの誤った手法で行われている場合が少なくない。つまり、他者との共感や共存は、決して自分の身体を外装的自己や擬似的な他者の心の動きに譲り渡すのではなく、あくまで自分自身の魂を、自分の身体にしっかりと宿らせ、自分自身がこの身体と精神を有する主体であることをしっかりと認識した上で、はじめて可能となるのである。これについても、私自身がこれまで行ってきた他者理解の手法は、他者を自分自身の身体の上でなぞる行為を通じて、より深く他者に共感し、他者の痛みを理解しようという「過剰適応」であった。……自らの精神による自分自身の魂の長期にわたる「疎外」によって、その魂が本来宿るはずの身体は徐々に硬直化し、全身がコリや冷えによって実際に鎧をまとったようになっていた。何度か、致命的な体調不良を繰り返し、ついにこのままでは続かないということを悟って、自らの身体と精神に本格的に向き合う。その治療過程で出会ったのは、自分自身が自分自身の身体という場を得て存在している、ということへの認識を持つこと(フルフォード 1996、訳書 1997)、そして、他者の心の動きに過剰に憑依したり、自己の行動や判断を他者の反応に委ねることは、自分自身の魂の尊厳の放棄であり、自らの身体と魂を傷つける行為である、と認識することであった。私が通ったクリニックの精神科医は私の治療期間の約一年半、ほとんど何もコメントを挟まなかったが、唯一、「あなたはあなた。それ以上でもそれ以下でもない。できることはできるし、できないことはできない。他人の気持ちを考えてもその人は本当にそう思っているかどうかわからないのでやってもしょうがない」というメッセージを送り続けた。
深尾葉子(2012)『魂の脱植民地化とは何か』(叢書 魂の脱植民地化 1) p.53-55, 青灯社.
深尾葉子(2012)『魂の脱植民地化とは何か』(叢書 魂の脱植民地化 1) p.53-55, 青灯社.
2016年9月11日日曜日
蔵書リスト——物理学(天文・宇宙)
・『天文学への招待』岡村定矩編(2001)朝倉書店
・『星空案内人になろう!〜夜空が教室。やさしい天文学入門』柴田恭平ほか(2007)技術評論社
・『星座の事典』沼澤茂美・脇屋奈々代(2016)ナツメ社
・『天文不思議集』ヴェルデ,ジャン=ピエール , 荒俣宏監修 , 唐牛幸子訳(1992)創元社
・『宇宙の起源』チン,ズアン,トゥアン , 佐藤勝彦監修 , 南條郁子訳(1995)創元社
・『タオ自然学』カプラ,フリッチョフ , 吉福伸逸・田中三彦・島田裕巳・中山直子訳(1979)工作舎
・『星空案内人になろう!〜夜空が教室。やさしい天文学入門』柴田恭平ほか(2007)技術評論社
・『星座の事典』沼澤茂美・脇屋奈々代(2016)ナツメ社
・『天文不思議集』ヴェルデ,ジャン=ピエール , 荒俣宏監修 , 唐牛幸子訳(1992)創元社
・『宇宙の起源』チン,ズアン,トゥアン , 佐藤勝彦監修 , 南條郁子訳(1995)創元社
・『タオ自然学』カプラ,フリッチョフ , 吉福伸逸・田中三彦・島田裕巳・中山直子訳(1979)工作舎
蔵書リスト——哲学
・『思考と論理』大森荘蔵(2015)ちくま学芸文庫
・『タオ自然学』カプラ,フリッチョフ , 吉福伸逸・田中三彦・島田裕巳・中山直子訳(1979)工作舎
・『ひとを〈嫌う〉ということ』中島義道(2000)角川書店
・『人生、しょせん気晴らし』中島義道(2009)文藝春秋
・『タオ自然学』カプラ,フリッチョフ , 吉福伸逸・田中三彦・島田裕巳・中山直子訳(1979)工作舎
・『ひとを〈嫌う〉ということ』中島義道(2000)角川書店
・『人生、しょせん気晴らし』中島義道(2009)文藝春秋
蔵書リスト——思考・啓発・実用
・『魂の脱植民地化とは何か(叢書 魂の脱植民地化1)』深尾葉子(2012)青灯社
・『枠組み外しの旅——「個性化」が変える福祉社会(叢書 魂の脱植民地化2)』竹端寛(2012)青灯社
・『知の編集術』松岡正剛(2000)講談社現代新書
・『共読する方法の学校 インタースコア』松岡正剛&イシス編集学校(2015)春愁社
・『眠りながら成功する』マーフィー,ジョセフ , 大島淳一訳(1968)産業能率大学出版部
・『眠りながら願いを叶える!マーフィーの成功法則 CDブック』渡部昇一(2011)マキノ出版
・『こうして、思考は現実になる』グラウト,パム , 桜田直美訳(2014)サンマーク出版
・『編集学——つなげる思考・発見の技法』紫牟田伸子 , 早川克美編(2014)藝術学舎
・『枠組み外しの旅——「個性化」が変える福祉社会(叢書 魂の脱植民地化2)』竹端寛(2012)青灯社
・『知の編集術』松岡正剛(2000)講談社現代新書
・『共読する方法の学校 インタースコア』松岡正剛&イシス編集学校(2015)春愁社
・『眠りながら成功する』マーフィー,ジョセフ , 大島淳一訳(1968)産業能率大学出版部
・『眠りながら願いを叶える!マーフィーの成功法則 CDブック』渡部昇一(2011)マキノ出版
・『こうして、思考は現実になる』グラウト,パム , 桜田直美訳(2014)サンマーク出版
・『編集学——つなげる思考・発見の技法』紫牟田伸子 , 早川克美編(2014)藝術学舎