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2017年3月5日日曜日

ランと人類の退行:ヒエラルキー高位故の脅威

自然界にいるランは、あきらかに退行したと思われる、微細な無数の種子をまき散らすだけで満足している。……生命の歴史をたどればかならず退行的な傾向にゆきあたるし、人類も人類の文明もやはりそれをまぬがれてはいない。……

近代人と同様に、ランも、永続的な「支え」や特殊な環境がなければ、存続してはいけないだろう。だいいち、もう光合成を捨ててしまって、腐植土のうえで菌類のような生活をしているものさえいる。生物のヒエラルキーの高位に到達したランは、人間と同様に、安易につくという危険に脅かされているのだ。つまり、植物学者が「寄生的退行」と呼び、道徳家が「居候的生活」と呼んでいるような傾向だ。……

要するにランは、熱帯林や、地中海地方のガリッグや、アルプスの芝草型草原や、スカンンジナビアという、さまざまに異なる環境で生活するためにいかに適応するかという、ぼくらと同じ問題をかかえている。エネルギーの均衡と食性を問いなおす、クロロフィルの喪失のような重大な事故には、いかに対処したらよいか?いかにしたら、セックスパートナーの特殊化と貞節から受けるあきらかな恩恵を維持しながらも、いずれは致命的なものになりかねない完全な依存状態に陥らないでいられるだろうか?どうしたら、個体数を調整し、バースコントロールをして、無制限な繁殖をまぬがれることができるか?いかにしたら、ぼくらが既得権と呼んでもよいようなそれ以前の進歩をたえず疑問に付す、不幸な退行的傾向を避けることができるだろうか?ランたちは、これほどたくさんの問題に答えざるをえなかったし、これほどたくさんの挑戦に応じてこざるをえなかったのだ。

 ジャン=マリー・ペルト(1995)『恋する植物』(ベカエール直美訳)p.44-46, 工作舎.

2017年2月23日木曜日

自然と道徳:自然のなかで生きる人間の役目

フェティシズムというのは、性欲を自然の対象からそらして他のものに向ける、リビドーの逸脱のことだ。といっても自然は、目的を、つまりここでは受粉を達成するや、逸脱なんかに用はなくなる。自然は、「自然の法則」——結婚における生殖を目的とした男女の結びつき——に一致したと見なされるもの以外はあらゆる性の表現を非難する、かつての道徳家の一見論理的な論法を、背面から攻撃しているわけだ。それに、重箱の隅の隅までほじくるような道徳専門家の決疑論者たちに、自然なものとそうでないものとを区別する才があるなどとは、信用できるものではない。

そもそも自然は、自分にとってまったく意味をなさないそんな微妙な区別など気にもしないだろう。自然が発明するものはみな、当然ながら自然なものなのだから。そのうえ、自然の想像力には限りがないので、自然的なものの領域にも限界がない。あらゆる可能性のあいだに、たとえば、ビクトリア王朝的諸時代にもてはやされた厳格な態度が生む危険と、退廃期(デカダンス)につきものの腐敗の危険とのあいだに、最良の均衡を見いだすことこそ、人間の役目なのだ。各人が、何が自分にとって良いことで、しかも他人にとっても悪くないことかを、自覚せねばならない。自然にはうまい口実があり、そのおかげで、あらゆる態度、あらゆる経験、あらゆる大胆さ……さらにはあらゆるエゴイスムを正当化できる。だからといって自然は、人間が、精神と心と肉体の、つねに危うく、つねに脅かされた調和のなかで、また、その風習や文化の豊かな多様性のなかで、賢明に自らを築きあげてゆくことを免除したりはしないだろう。

 ジャン=マリー・ペルト(1995)『恋する植物』(ベカエール直美訳)p.30-31, 工作舎.