ラベル 人物:松岡正剛 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 人物:松岡正剛 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年5月12日金曜日

無知=未知が見えなくなること

ロラン・バルト(714夜)が早々にあきらかにしたように、無知というのは知識の欠如なのではなく、知識に過飽和されていて、未知が見えなくなったり、新たな未知を受け入れることができないことを言う。狭隘になった知性が無知なのだ。

 松岡正剛(2017)『アメリカの反知性主義(千夜千冊1638夜)』

2017年2月6日月曜日

才能・能力とは:モノから「引き出す」力

一錐、二鉋、三釿。どう読むだろうか。一キリ、二カンナ、三チョウナと読む。チョウナは手斧のことをいう。この順に数奇屋大工は道具をものにしていくという教えやコツをあらわした言葉だ。……道具は手につたわる重さによって出来がちがうというのだ。……しかしカンナひとつにも多様な刃が工夫されていて、いまは写真に並んでいるような台カンナばかりが知られているが、たとえば槍カンナと棹カンナではまったく別物のようなのだ。それを大工は鮮やかに使いこなしていったのだ。

そこに業物(わざもの)が生まれる。名人・達人・鉄人がこよなく偏愛した道具たちである。業物は刀剣も含んだ。そして、そのようにすぐれた道具をもってすぐれた業(わざ)を発揚することを「才能」とか「能力」と言った。「才」とは木材や石才に宿っている力のことを言い、それを引き出す技や業が「能」だったのである。……つまり才能とか能力とかは、アタマやカラダや知能にそなわっているものではなく、素材や道具にそなわっているものを引き出せる仕業のことだったのである。大工道具たちにはその能力がギラリと光っている。

 松岡正剛(年号不明)「百辞百物百景——コンセプト・ジャパン100 022 能力」『週刊ポスト』小学館

2017年1月15日日曜日

稲垣足穂:タルホが放つ都会の遊星的郷愁

 「 ある夕方
 
   お月様が

   ポケットの中へ

   自分を入れて

   歩いていた 」


稲垣足穂ほどオブジェ的な趣向に徹して、文芸の工芸細工化を試みた作家は、昭和にはいなかった。その趣向は少年期に見聞体験したものに発し、それを独自の文体で磨き上げて別物にまで高めていくところにあった。こうしてプロペラ飛行機、ボギー電車、六月の都会の夜、星の瞬き、天文学、水晶、弥勒菩薩、存在の裏地、半ズボン、パンツ、お尻、男色的スリル、サーカス、壊れた機会、ジオラマ、置き去りのオブジェ、能楽、薄明の妖精たちが、タルホ認定の工芸作品に仕上がっていった。……

あえて思いきって言うのなら、タルホは1923年に『一千一秒物語』を書いたとき、デヴィッド・ボウイの何たるかを先取りしていた。ぼくはそう見てきた。そういう人なのだ。ダダイストや未来派がやりたかったこと、ハイデガーが問いたかったこと、ハイゼンベルクが不確定性原理で説明したかったこと、サイケデリックアートが訴えたいこと、観音寿夫が挑みたかったこと、そんなことはとっくに見通していた。

なぜタルホがそういう人でありえたのかといえば、まったくお金や名誉と無縁であり、自分のことを口腔から校門に向かってチューブが通っている円筒人間にすぎないとみなし、少年も文芸も官能もできるかぎり抽象的であるべきだと確信していたからだった。そして、どんな美しさも「フラジャイルで儚いもの」として表現することを選んできた。

最近の日本では、やたらに浮ついたグローバルな人材が期待されているようだが、ぼくは、あの三島由紀夫・土方巽・澁澤龍彦にとって”聖者”であった稲垣足穂こそが、都会のシルエットをまるごと遊星的郷愁とみなせるグローバルな感性の持ち主だったと言いたい。

 松岡正剛(2016)「BOOKWARE 」,『SANKEI EXPRESS』2016年1月24日, p.12, 産経新聞社

「いのり」と「ねがひ」

「いのり」が抽象だとすれば、「ねがひ」は具体である。「いのり」が無人称であるとすれば、「ねがひ」は人称的である。「いのり」がプロフェッショナルだとすれば、「ねがひ」はどこかアマチュア的だ。

 松岡正剛(年号不明)「百辞百物百景——コンセプト・ジャパン100 071 希(ねが)う」『週刊ポスト』小学館

2016年11月10日木曜日

「警戒しすぎてチャンスを失う」社会:過剰なリスクヘッジによる偶発性、創発性の摩滅

……今日の社会は「リスクを恐れる社会」になっているということだ。……それがしだいに個人のレベルにまでおよんでいる。スマホやグーグル検索を活用することを咎めたいのではない。そこに情報と知識が充填されていると思いこんで、ついつい自分で選択したり思考したりしているつもりが、そうではなくなっていってしまうことに懸念がある。とりわけ「思考のリスク」を冒すことを怖がっている。……セーフティネットはどんなことにも必要だ。ところがそんなことをしているうちに、本来は「安全の分配」のつもりがいつのまにか「リスクの分配」になり、もともとは「富の分配」をするつもりが気がついたらすっかり「リスクの分配」ばかりをする社会になってきた。……現代社会のシステムは、国家であれ企業であれ、国際機関であれ自治体であれ、みずからのシステム維持のためのコストが嵩みすぎて、新たな創発性を発揮できなくなっている。……ルーマンやローティは、これはシステムに出入りする「意味」が多重性や多様性をもてなくなってきたからだとみなし、外の現象の介入がインディケーター(因子)になりすぎているからだと解釈した。……

どんな社会システムにも、そこには相互作用と鏡像作用と相補作用がおこっている。小学校の教室が一年たつごとにかわっていくプロセスを見ればわかるように、この三つの作用は、意味を「まねる」「うつす」「わたす」を繰り返していくうちにおこっていく。世阿弥の稽古哲学もこの「まねる」「うつす」「わたす」をあきらかにした。けれどもここにリスクのメモリを入れ込み、リスクヘッジのしくみをいちいち入れていくと、三つの作用がどんどんフラットになっていく。外からのインディケーターを入れすぎると、そうなっていく。いわゆる”縛り”というものだ。それを法令で縛ればコンプライアンスになる。コンプライアンスの”縛り”が内部化されていくと、どうなるか。フラットになるだけではない。システム内のフローのどこにでもおこりうるはずだった「別様の可能性」や「創発の契機」といった可能性が摩滅していってしまうのだ。……「警戒しすぎてチャンスを失う」ということはスポーツや仕事に付きもののことであるはずなのに、社会的にはそれができなくなっているのだ。……せっかくのチャンスもオケージョンもオポチュニティも、個人の機会から遠のいていく。もっと大きな問題なのは、こんなことをしていては異質性をことごとく排除してしまう社会意識や個人意識ばかりがはびこっていくということである。ここは見方を変える必要がある。こうしてここに登場してくるのがコンティンジェントな見方なのだ。

 松岡正剛&イシス編集学校(2015)『共読する方法の学校 インタースコア』p.92-100, 春秋社

コンティンジェンシー(偶発性):社会や個人の持つ、内部からの自律的な創発力

コンティンジェンシー(contingency)という英語は日本語による説明が難しいのだが、とりあえずは「そこに偶発する別様の可能性」というふうに思っておいていただきたい。正確には「そこに偶有されていた別様の可能性の発現」というべきなのだが、ともかくも”別様”というニュアンスが重要なのだ。……システムにとって重要なことは、それが閉鎖系か開放系であるかということにある。生命や社会がつくりあげたシステムの多くは開放系である。開放系のシステムには、なんらかの情報がそのシステムの内外を必ず出入りするという特徴がある。出入りしているだけでなく、システムはそういう情報をつかって自身を自己組織化したり自己編集化する。……このような自己組織化がすすむうちに、システムに「ゆらぎ」が生じて、その構成要素が自律的な創発力を発揮することがある。そういう創発の場はしばしば「カオスの淵」などと呼ばれた。ルーマンは社会や組織の多くが、本来は自律的で自己産出的なものであろうとみなし、そこにはマトゥラナやヴァレラが言うオートポイエーシスなはたらきが主導していると見た。オートポイエーシスとは自律的な生成力のことをいう。システムは全体としてのシステムの維持だけではなく、どこかで新たなサブシステムのようなものを自律的に”分出”しているはずだとみなしたのだ。……

偶然や偶発を存在の周辺やシステムの内外の境界に秘めているのがコンティンジェンシーなのである。コンティンジェンシーには「偶然」とともに「生起」もかかわっているのだ。リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』のなかで、われわれの社会には「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」が同時多発的にかかわっているとみなし、その衰退や摩滅が世界から真の連帯を殺いでいくと見通した。そして、「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」のありようこそが、今後の社会と個人の行動と意識に新たな可能性をもたらすのではないかとみなした。ぼくは、この見方に大きく加担する。社会も個人も「別様性」をもっていなくてどうするのかということだ。ただし、よくよく理解しておいてほしいのだが、これはオルタナティブなオプションを用意しておくということではない。システムや個人の内部に発現の可能性があるということだ。受精卵に針でつついた刺激があると、そこから別様の発生や分化がおこることを高校生物の授業で習った記憶があると思うけれど、まさにそういう内部発生型の別様可能性なのである。……

……認知言語学者のドナルド・デイヴィッドソンは、コンティンジェンシーを理論的に扱うには「パッシング・セオリー」(つかのまの理論)のようなものがきっと必要になるだろうと提案した。炯眼だった。コンティンジェンシーや「偶然のいたずら」の様子は、たしかに「つかのま」の様子をあらわす感覚的な要因によって扱うしかないようなところがあるからだ。パッシングなものとは何か。ひらめき、つまずき、脇見、乱用、誤用、とっさの発言、らしさ、思いつき、ニュアンスのはこび、ひょんな沈黙……などなどがパッシングなものだ。これらは一つひとつではときにノイズや接続詞や役立たずなもののようであるが、あるときこれらが急に組み合わさって、その場のコンティンジェンシーを成立させていく。

 松岡正剛&イシス編集学校(2015)『共読する方法の学校 インタースコア』p.92-102, 春秋社

2016年9月30日金曜日

編集とは:創発的な技術、さまざまな物事の関係を見る

編集には、そもそも人間の認知活動から表現活動までが、記憶のしくみから知識の組み立てまでが、また、メディアによる編集のあれこれからコンピュータ・ネットワーク技術による編集までが、ほぼずっぽりふくまれる。……編集の裾野はそれくらい広いのだが、それを一言でいうのなら「コミュニケーションの充実と拡張に関する方法」というものだ。……ただし、編集術は整理術ではない。情報を創発するための技術なのである。創発とは、その場面におよぶと巧まずして出てくるクリエイティビティのようなものをいう。あらかじめ準備しておく編集も大事だが、その場に臨んでますます発揮できる編集力、それが私がいちばん重視する創発的な技術というものだ。……こんなことを書くと結論めくが、編集でいちばん大事なことは、さまざまな事実や事態や現象を別々に放っておかないで、それらの「あいだ」にひそむ関係を発見することにある。そしてこれらをじっくりつなげていくことにある。

 松岡正剛(2000)『知の編集術』 p.16-37-46, 講談社.