学問の世界において、どうすれば創造性を発現できるのか。私は自分自身に向かって、この問をくりかえし発してきた。そして、いろいろな角度から、この問に対する部分的な答えをあたえようと試みてきた。その中のひとつとして、私たちが日本人であるという角度からの接近がある。……日本人の創造性を問題にする場合には、学問の世界に話を限ってしまうわけにはいかない。長い歴史の中で日本人が創造性を発現してきたのは、学問よりはむしろ芸術の世界においてであったことは、誰の目にも明らかであった。それどころか、学問とか芸術とかいう狭い意味の文化活動だけを、日本人の生活一般の中から切りはなして取り出すことさえ適切でないのである。一口に日本文化といわれるものの中で、日常生活と密着した部分の占める比率が異常に大きいことは、伝統的な家具・調度の類や庭園などを思い浮かべるだけで、ただちに納得されるであろう。生活の芸術化とでもいうべき傾向が、日本文化の重要な特色のひとつでもあったのである。
湯川秀樹・上田正昭(1971)『日本文化の創造』p.1-2(湯川氏によるまえがき), 雄渾社.
2017年4月23日日曜日
機械化と創造性の対立:自殺か、自活か
孔子の弟子の子貢というのが旅行しているとき、一人の農夫が田に働いているのを見つけた。その人は、畠に水をやるのに、掘った井戸へ下りて行って、バケツに水を充たし、それから、それを持ち上げて、畠へ持って行って、野菜に必要な水をやっていた。その都度の労力というものは、並々ならぬのである。子貢は見かねて、そのお百姓さんに語りかけた。
「君、それは容易ならぬ労働だ。はねつるべといわれるのを、君はまだ聞いていないか。それを使うと、今の仕事などは、立ちどころに出来てしまう。それを使いたまえ。」
これを聞いたお百姓さんは、
「それは、どんなものか。」
と尋ねた。そこで子貢は、その構造を説明して、よくわかるようにしてやった。お百姓いわく、
「それは、わしも知らぬことはない。しかし機会というものを使うと、機心というものが出る。それは力を省いて、功を多くしようとする心持だ。わしはそれが嫌だ。結果を考えて仕事をやるということは、功利主義である。この考えが胸中に浮かぶと、心の純粋性が乱れる。これは道に反する。ものに制せられるということは、わしの好まぬところだ。」……
近代文明が、滔滔として、オートメーション時代に向かって驀進しつつあるとき、はねつるべの話は、大分、縁遠いようである。が、この話のうちに、東洋的なるものと西洋的なるものとの交渉が潜んでいることを忘れてはならぬ。……
法則・機械・必至・圧迫などという一連の思想、そうして、これと正反対の思想……人間・創造・自由・遊戯自在、これらが、どういうふうに協調していけるか、あるいは、また、どうしても協調していけぬか。自殺か、自活か。これがいろいろの形で、歴史の上に現れてくる。近代は、これが、ことに著しい厳しさをもって、われらに臨んできている。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.136-139, 岩波文庫.
「君、それは容易ならぬ労働だ。はねつるべといわれるのを、君はまだ聞いていないか。それを使うと、今の仕事などは、立ちどころに出来てしまう。それを使いたまえ。」
これを聞いたお百姓さんは、
「それは、どんなものか。」
と尋ねた。そこで子貢は、その構造を説明して、よくわかるようにしてやった。お百姓いわく、
「それは、わしも知らぬことはない。しかし機会というものを使うと、機心というものが出る。それは力を省いて、功を多くしようとする心持だ。わしはそれが嫌だ。結果を考えて仕事をやるということは、功利主義である。この考えが胸中に浮かぶと、心の純粋性が乱れる。これは道に反する。ものに制せられるということは、わしの好まぬところだ。」……
近代文明が、滔滔として、オートメーション時代に向かって驀進しつつあるとき、はねつるべの話は、大分、縁遠いようである。が、この話のうちに、東洋的なるものと西洋的なるものとの交渉が潜んでいることを忘れてはならぬ。……
法則・機械・必至・圧迫などという一連の思想、そうして、これと正反対の思想……人間・創造・自由・遊戯自在、これらが、どういうふうに協調していけるか、あるいは、また、どうしても協調していけぬか。自殺か、自活か。これがいろいろの形で、歴史の上に現れてくる。近代は、これが、ことに著しい厳しさをもって、われらに臨んできている。
鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.136-139, 岩波文庫.