学問の世界において、どうすれば創造性を発現できるのか。私は自分自身に向かって、この問をくりかえし発してきた。そして、いろいろな角度から、この問に対する部分的な答えをあたえようと試みてきた。その中のひとつとして、私たちが日本人であるという角度からの接近がある。……日本人の創造性を問題にする場合には、学問の世界に話を限ってしまうわけにはいかない。長い歴史の中で日本人が創造性を発現してきたのは、学問よりはむしろ芸術の世界においてであったことは、誰の目にも明らかであった。それどころか、学問とか芸術とかいう狭い意味の文化活動だけを、日本人の生活一般の中から切りはなして取り出すことさえ適切でないのである。一口に日本文化といわれるものの中で、日常生活と密着した部分の占める比率が異常に大きいことは、伝統的な家具・調度の類や庭園などを思い浮かべるだけで、ただちに納得されるであろう。生活の芸術化とでもいうべき傾向が、日本文化の重要な特色のひとつでもあったのである。
湯川秀樹・上田正昭(1971)『日本文化の創造』p.1-2(湯川氏によるまえがき), 雄渾社.
2018年1月4日木曜日
数学・天文学者の芸術性:人間的不幸と「天体の諧音」
天文学的一群は、世俗的事柄とは没交渉で、だからこそ、非人間的な題目の上にも没頭出来るというものです。その点、天文学者はどこか芸術家と共通しています。二十世紀最大の数学者とも云われているヒルベルトは、ある時、人から「彼はどうして数学者にならずに、詩人になってしまったのでしょうか」と訊ねられて、「たぶん数学者になるには想像力が欠けていたのでしょう」と答えたと云います。……
凡そ現世的な事柄に対して、常に不幸な、且つきわめて贅沢な関係に置かれているのでなければ、何人も、ある対象を一般人とは全く別様に眺めるなどいうことは出来ません。ましてそれを美的に、抽象的に、それともアイロニカリーに表現するなんて思いもよらない話でしょう。この作業に携わるための資格としては、人間的に意味における貧しさと寂寥、一般現実性への失格、迎合的な自己再編成への断念等々が要請されます。こうして自ら悲惨でないための手段は、さしあたり芸術に没頭することです。しかし、現実としての芸術の営みは、その長所よりもむしろ欠点の方が目立ち易い。これに我慢が出来なくて彼らは、敢て自ら選んだ「人なき道」にあっても、詩歌にはたよらないで、数学的記号を採用したのだと考えられます。……天体を相手にするのは、各自の選択及び決意性にもとづくことであり、これによって彼は、天文学以外の諸可能性を排除して、あえて自身を宿命の下に置きます。日常性に対して虚無的にあるほど人は童話の天文学者になりがちです。シバの女王から去ったバルタザールが櫓(やぐら)にこもって、星の研究に耽るではありませんか!でも彼は、以後では、酒盃など手にしなかったことでしょう。……
モーツァルトは、作曲のための条件をゲーテから質問されて、「程良いごちそうの夕食後の散策」を挙げています。Z項で有名な木村栄博士は、晩酌と宝生流の謡曲を愉しんでおられたと聞いています。天文学には、このように何か無政府的性格があります。神経質でもいい、やりッ放しでもいい。只欠くことの出来ないのは根気でしょう。……
僕はある時、天文年鑑を披いていて、各国の彗星発見者が申し合わしたように夭折していることを知って、不思議な気持に襲われました。……これらは一体何事でしょう。初めて望遠鏡を天体に向けたガリレオの晩年の失明と合わせて、すべてこれらは、許されざる界域を敢て窺ったがための懲罰でしょうか?僕は次のようにみたいのです。天文学者のある者には、常人が夢にも知らない遼遠な消息に触れることがあるのだと。ーーそういうわけだから、もしも彼らの生涯が何かオッドな、不幸な、孤立したものだと考える者がいたとすれば、それは飛んでもないことだ。天文学者らがそれを意識していたかどうかは別として、ともかくある恵まれた短時間中にあっては、未来的な、言説に絶した或者への凝視のために、彼らの心境は澄んで、悠々たるものがあったのでなければならない。「それは偉い学者か哲人の耳にしか聞えない」とピタゴラス派が言っている天体の諧音を、彼らは聴いたのです。
稲垣足穂(1979)『僕の“ユリーカ”』p.19-41, 第三文明社.
凡そ現世的な事柄に対して、常に不幸な、且つきわめて贅沢な関係に置かれているのでなければ、何人も、ある対象を一般人とは全く別様に眺めるなどいうことは出来ません。ましてそれを美的に、抽象的に、それともアイロニカリーに表現するなんて思いもよらない話でしょう。この作業に携わるための資格としては、人間的に意味における貧しさと寂寥、一般現実性への失格、迎合的な自己再編成への断念等々が要請されます。こうして自ら悲惨でないための手段は、さしあたり芸術に没頭することです。しかし、現実としての芸術の営みは、その長所よりもむしろ欠点の方が目立ち易い。これに我慢が出来なくて彼らは、敢て自ら選んだ「人なき道」にあっても、詩歌にはたよらないで、数学的記号を採用したのだと考えられます。……天体を相手にするのは、各自の選択及び決意性にもとづくことであり、これによって彼は、天文学以外の諸可能性を排除して、あえて自身を宿命の下に置きます。日常性に対して虚無的にあるほど人は童話の天文学者になりがちです。シバの女王から去ったバルタザールが櫓(やぐら)にこもって、星の研究に耽るではありませんか!でも彼は、以後では、酒盃など手にしなかったことでしょう。……
モーツァルトは、作曲のための条件をゲーテから質問されて、「程良いごちそうの夕食後の散策」を挙げています。Z項で有名な木村栄博士は、晩酌と宝生流の謡曲を愉しんでおられたと聞いています。天文学には、このように何か無政府的性格があります。神経質でもいい、やりッ放しでもいい。只欠くことの出来ないのは根気でしょう。……
僕はある時、天文年鑑を披いていて、各国の彗星発見者が申し合わしたように夭折していることを知って、不思議な気持に襲われました。……これらは一体何事でしょう。初めて望遠鏡を天体に向けたガリレオの晩年の失明と合わせて、すべてこれらは、許されざる界域を敢て窺ったがための懲罰でしょうか?僕は次のようにみたいのです。天文学者のある者には、常人が夢にも知らない遼遠な消息に触れることがあるのだと。ーーそういうわけだから、もしも彼らの生涯が何かオッドな、不幸な、孤立したものだと考える者がいたとすれば、それは飛んでもないことだ。天文学者らがそれを意識していたかどうかは別として、ともかくある恵まれた短時間中にあっては、未来的な、言説に絶した或者への凝視のために、彼らの心境は澄んで、悠々たるものがあったのでなければならない。「それは偉い学者か哲人の耳にしか聞えない」とピタゴラス派が言っている天体の諧音を、彼らは聴いたのです。
稲垣足穂(1979)『僕の“ユリーカ”』p.19-41, 第三文明社.
2017年4月23日日曜日
限界芸術と妙好人:果てしない反復による民芸の美
限界芸術にたいする関心が、宗教とむすびついて発展するもう一つの例を、柳宗悦の思想に見ることができる。……仏教への関心は、妙好人への関心を中心とする。僧侶ではなく信心のあつい平信徒としての妙好人は、どんなあつかいを世間からうけてもよろこんでうけいれ、いつもたのしく毎日をくらしている。彼は、他人を批判する権利をすて、自分の個人的意志をはたらかすことのないような無心な生き方をしている。このような妙好人の信仰が、もっともすぐれた雑器を生みだす。すぐれた雑器をつくる職人たちについて書く文章は、妙好人について書く文章とほとんと同じことを言っている。
「彼等は多く作らねばならぬ。このことは仕事の限りなき繰返しを求める。同じ形、同じ模様、果しもないその反復。だがこの単調な仕事が、酬(むく)いとしてそれ等の作をいや美しくする。かかる反復は拙き者にも、技術の完成を与える。長い労力の後には、どの職人とてもそれぞれに名工である。その味なき繰返しに於て、彼等は技術をすら越えた高い域に進む。彼等は何事をも忘れつつ作る。……そこに見られる美は驚くべき熟練の所産である。それを一日で酵(かも)された美と思ってはならぬ。あの粗末な日々の用品にも、その背後には多くの歳月と、飽くことなき労働と、味けない反復とか潜んでいる。粗末に扱われる雑具にも、技術への全き支配と離脱とがある。よき作が生れないわけにゆかぬ。彼等の長い労働が美を確実に保証しているのである。」(柳宗悦「工芸の美」一九二七年)
鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』p.39-47, ちくま学芸文庫
「彼等は多く作らねばならぬ。このことは仕事の限りなき繰返しを求める。同じ形、同じ模様、果しもないその反復。だがこの単調な仕事が、酬(むく)いとしてそれ等の作をいや美しくする。かかる反復は拙き者にも、技術の完成を与える。長い労力の後には、どの職人とてもそれぞれに名工である。その味なき繰返しに於て、彼等は技術をすら越えた高い域に進む。彼等は何事をも忘れつつ作る。……そこに見られる美は驚くべき熟練の所産である。それを一日で酵(かも)された美と思ってはならぬ。あの粗末な日々の用品にも、その背後には多くの歳月と、飽くことなき労働と、味けない反復とか潜んでいる。粗末に扱われる雑具にも、技術への全き支配と離脱とがある。よき作が生れないわけにゆかぬ。彼等の長い労働が美を確実に保証しているのである。」(柳宗悦「工芸の美」一九二七年)
鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』p.39-47, ちくま学芸文庫
2017年3月31日金曜日
宮沢賢治の理念:現状を理想化した「イーハトーヴォ」の普遍性
宮沢賢治の詩の多くが心象スケッチとよばれ、外で出会った事物のひとつひとつを機縁として心中にうかんできた印象をかきとどめるという形をとったのと同じく、人についても彼は自分の出会う人それぞれをとおしてその個性の延長線上の交錯において架空の理想郷をくみたてた。シロウトをあつめて演劇を試みるという点ではロッセリーニに似ているが、ここでくわだてられるのはネオ・リアリズムではなく、ネオ・アイディアリズムの方法である。
このようにして、自分の今いる状況を理想化するという方向は、宮沢の作品の世界では、「イーハトーヴォ」というシンボリズムに結晶する。イーハトーヴォというのは、賢治たちの時代の貧しい現実の岩手県を機縁として、その個性的なマイナスをすべてプラスにかえてつくられた理想郷の姿であり、それは理想郷であるかぎり、時間も空間もこえ、あらゆる物、動物、人種がそこに来て住むことのできるような普遍性を獲得している。
鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』p.61, ちくま学芸文庫
芸術について:生活の中に広くある美的経験
芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである。もう少しむずかしく言いかえるならば、芸術とは、美的経験を直接的につくり出す記号であると言えよう。ここでさらに、美的経験とは何か、が問題になる。結論から先に言えば、美的経験とは、もっとも広くとれば、直接価値的経験(それじしんにおいて価値のある経験)とおなじひろがりをもつものと考えられる。一つの例をあげて言うと、直接価値的経験とは、労働をとおして食費をかせぐという間接価値的経験の結果えられた「食事をする」という経験である。……
それにしても、飯を食うという行為は、美的経験だろうか。……すでにデューイの私的しているように、毎日の経験の大部分は美的経験としてたかまってゆかない。このために、美的経験としてとくに高まって行く経験だけを、狭い意味での美的経験と呼ぶことにする。……美的経験として高まってゆき、まとまりをもつということは、その過程において、その経験をもつ個人の日常的な利害を忘れさせ、日常的な世界の外につれてゆき、休息をあたえる。また、経験の持主の感情が、その鑑賞しつつある対象に移されて対象の中にあるかのように感じられる。……
依然として、美的経験は、かなりひろい領域をもっている。われわれの毎日のもつ美的経験の大部分は、芸術作品とは無関係にもたれるものと言ってよい。部屋の中を見るとか、町並を見るとか、空を見るとかによって生じる美的経験のほうが、展覧会に行って純粋に芸術作品と呼ばれる絵を見ることで生じる美的経験よりも大きい部分を占める。日本の家の構造ではラジオの流行歌やドラマがひっきりなしに入ってくるから、これらの大衆芸術作品による美的経験はかなり大きい部分を占めるとしても、やはり友人や同僚の声、家族の人の話などのほうがより大きな美的経験であろう。
鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』p.10-13, ちくま学芸文庫
それにしても、飯を食うという行為は、美的経験だろうか。……すでにデューイの私的しているように、毎日の経験の大部分は美的経験としてたかまってゆかない。このために、美的経験としてとくに高まって行く経験だけを、狭い意味での美的経験と呼ぶことにする。……美的経験として高まってゆき、まとまりをもつということは、その過程において、その経験をもつ個人の日常的な利害を忘れさせ、日常的な世界の外につれてゆき、休息をあたえる。また、経験の持主の感情が、その鑑賞しつつある対象に移されて対象の中にあるかのように感じられる。……
依然として、美的経験は、かなりひろい領域をもっている。われわれの毎日のもつ美的経験の大部分は、芸術作品とは無関係にもたれるものと言ってよい。部屋の中を見るとか、町並を見るとか、空を見るとかによって生じる美的経験のほうが、展覧会に行って純粋に芸術作品と呼ばれる絵を見ることで生じる美的経験よりも大きい部分を占める。日本の家の構造ではラジオの流行歌やドラマがひっきりなしに入ってくるから、これらの大衆芸術作品による美的経験はかなり大きい部分を占めるとしても、やはり友人や同僚の声、家族の人の話などのほうがより大きな美的経験であろう。
鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』p.10-13, ちくま学芸文庫