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2017年4月23日日曜日

機械化と創造性の対立:自殺か、自活か

孔子の弟子の子貢というのが旅行しているとき、一人の農夫が田に働いているのを見つけた。その人は、畠に水をやるのに、掘った井戸へ下りて行って、バケツに水を充たし、それから、それを持ち上げて、畠へ持って行って、野菜に必要な水をやっていた。その都度の労力というものは、並々ならぬのである。子貢は見かねて、そのお百姓さんに語りかけた。
「君、それは容易ならぬ労働だ。はねつるべといわれるのを、君はまだ聞いていないか。それを使うと、今の仕事などは、立ちどころに出来てしまう。それを使いたまえ。」
これを聞いたお百姓さんは、
「それは、どんなものか。」
と尋ねた。そこで子貢は、その構造を説明して、よくわかるようにしてやった。お百姓いわく、
「それは、わしも知らぬことはない。しかし機会というものを使うと、機心というものが出る。それは力を省いて、功を多くしようとする心持だ。わしはそれが嫌だ。結果を考えて仕事をやるということは、功利主義である。この考えが胸中に浮かぶと、心の純粋性が乱れる。これは道に反する。ものに制せられるということは、わしの好まぬところだ。」……

近代文明が、滔滔として、オートメーション時代に向かって驀進しつつあるとき、はねつるべの話は、大分、縁遠いようである。が、この話のうちに、東洋的なるものと西洋的なるものとの交渉が潜んでいることを忘れてはならぬ。……

法則・機械・必至・圧迫などという一連の思想、そうして、これと正反対の思想……人間・創造・自由・遊戯自在、これらが、どういうふうに協調していけるか、あるいは、また、どうしても協調していけぬか。自殺か、自活か。これがいろいろの形で、歴史の上に現れてくる。近代は、これが、ことに著しい厳しさをもって、われらに臨んできている。

 鈴木大拙(1997)『新編 東洋的な見方』(上田閑照編)p.136-139, 岩波文庫.

2017年2月6日月曜日

才能・能力とは:モノから「引き出す」力

一錐、二鉋、三釿。どう読むだろうか。一キリ、二カンナ、三チョウナと読む。チョウナは手斧のことをいう。この順に数奇屋大工は道具をものにしていくという教えやコツをあらわした言葉だ。……道具は手につたわる重さによって出来がちがうというのだ。……しかしカンナひとつにも多様な刃が工夫されていて、いまは写真に並んでいるような台カンナばかりが知られているが、たとえば槍カンナと棹カンナではまったく別物のようなのだ。それを大工は鮮やかに使いこなしていったのだ。

そこに業物(わざもの)が生まれる。名人・達人・鉄人がこよなく偏愛した道具たちである。業物は刀剣も含んだ。そして、そのようにすぐれた道具をもってすぐれた業(わざ)を発揚することを「才能」とか「能力」と言った。「才」とは木材や石才に宿っている力のことを言い、それを引き出す技や業が「能」だったのである。……つまり才能とか能力とかは、アタマやカラダや知能にそなわっているものではなく、素材や道具にそなわっているものを引き出せる仕業のことだったのである。大工道具たちにはその能力がギラリと光っている。

 松岡正剛(年号不明)「百辞百物百景——コンセプト・ジャパン100 022 能力」『週刊ポスト』小学館