2017年3月9日木曜日

天文学史上最も美しい夜:天空を見上げた人間の想像性

直立歩行を始めた人間が空を見上げたその瞬間から、1609年12月のある夜が訪れるまで、人間はすべて大空の前で平等だった。その夜、ガリレオは天文学者として初めて天体に望遠鏡を向けた。天文学史上最も美しい夜が訪れたのだ。このガリレオの夜以前、知性に違いはあっても、夜空を見るために人が使えるのは、その人が持つ肉眼だけだった。しかしそのガリレオ以前、すなわち、望遠鏡という科学的な研究手段を手にする以前でさえ、天文学を数学に次ぐ精密科学だとした者は存在していた。一方、天空を観察して、神話を作り上げた者もいる。そういった神話は、往々にして取るに足りない伝説、昔話、民話のたぐいに成り下がってしまった。また、農業、航海、気象に関する法則を経験的に編み出した者もいる。空を見て単に夢想する歓びを引き出した者もいる。彼らはみんな天空のおかげで、想像力を豊かにし、自分の可能性をひろげた。

 ヴェルデ,ジャン=ピエール(1992)『天文不思議集』 (荒俣宏監修 , 唐牛幸子訳)p.21, 創元社.

「見立て」の観相術:天文を読み解くための古代的知的作業

人類が作成した最初のデーターベースは「天の前兆」集成だった。もちろん現在の天文学や気象学につながる先駆的な観測資料ともいえるが、それ以上にこの記録は天気予報ならぬ「森羅万象予報」の材料として途轍もない重要情報とみなされてきた。……したがって、どの文明圏でも天の前兆観測のために大規模な施設が築かれたのは当然であろう。……

本書でも強調されているように、天に前兆をみつけだす天文博士の叡知の基本は、「無秩序の事象から秩序ある法則をみちびく」ことである。……これを〈連想思索〉とでも呼ぼうか。いくつかの絶対的前提からスタートし、あとは連想ないし想像の力にまかせて関係性の連鎖をつくりだす方法である。……

しかし、われわれの世界を執拗に覆っている無秩序や偶然は、なお頑迷に解読を許さない。そこで登場する実践的な知的作業が「観相術」と呼ばれるものである。……好例が雲の形だろう。どう見てもランダムに形成される意味のない雲だが、これを見立てて、馬の形、とか、キリストの顔の形、というふうにパターン認識してしまうのだ。換言すれば、意味をもたせてしまうのだ。……

この観相的能力について、昨今では大きな関心がもたれはじめており、そもそも人間の知覚自体このような見立てによって成立していると考える方向も出てきつつある。美学面で話題となる「チャンス・イメージング(偶然に生まれる図像)」もその一例だろう。雲と同じく、元来意味もなく生じたインクの染みや自然石の形から、意味のあるイメージをさぐりあて、やれ「烏帽子岩」だの「寝姿岩」といったネーミング、またはロールシャッハ・テストなどが実践されている。これらの作業と、天の文(もん)すなわち天にあらわれた無意味な印を読み解く作業は、いうまでもなく古代的叡知の同一線上にある事例なのである。結局のところ、天文博士の権威と、かれらの奏する警告がもつ信憑性とは、すべてその連想力の精緻さ、説得性、ならびに現象との一致性に依拠するほかにないのである。

 ヴェルデ,ジャン=ピエール(1992)『天文不思議集』 (荒俣宏監修 , 唐牛幸子訳)日本語版監修者序文(p.1-4), 創元社.

2017年3月5日日曜日

ランと人類の退行:ヒエラルキー高位故の脅威

自然界にいるランは、あきらかに退行したと思われる、微細な無数の種子をまき散らすだけで満足している。……生命の歴史をたどればかならず退行的な傾向にゆきあたるし、人類も人類の文明もやはりそれをまぬがれてはいない。……

近代人と同様に、ランも、永続的な「支え」や特殊な環境がなければ、存続してはいけないだろう。だいいち、もう光合成を捨ててしまって、腐植土のうえで菌類のような生活をしているものさえいる。生物のヒエラルキーの高位に到達したランは、人間と同様に、安易につくという危険に脅かされているのだ。つまり、植物学者が「寄生的退行」と呼び、道徳家が「居候的生活」と呼んでいるような傾向だ。……

要するにランは、熱帯林や、地中海地方のガリッグや、アルプスの芝草型草原や、スカンンジナビアという、さまざまに異なる環境で生活するためにいかに適応するかという、ぼくらと同じ問題をかかえている。エネルギーの均衡と食性を問いなおす、クロロフィルの喪失のような重大な事故には、いかに対処したらよいか?いかにしたら、セックスパートナーの特殊化と貞節から受けるあきらかな恩恵を維持しながらも、いずれは致命的なものになりかねない完全な依存状態に陥らないでいられるだろうか?どうしたら、個体数を調整し、バースコントロールをして、無制限な繁殖をまぬがれることができるか?いかにしたら、ぼくらが既得権と呼んでもよいようなそれ以前の進歩をたえず疑問に付す、不幸な退行的傾向を避けることができるだろうか?ランたちは、これほどたくさんの問題に答えざるをえなかったし、これほどたくさんの挑戦に応じてこざるをえなかったのだ。

 ジャン=マリー・ペルト(1995)『恋する植物』(ベカエール直美訳)p.44-46, 工作舎.

2017年2月23日木曜日

自然と道徳:自然のなかで生きる人間の役目

フェティシズムというのは、性欲を自然の対象からそらして他のものに向ける、リビドーの逸脱のことだ。といっても自然は、目的を、つまりここでは受粉を達成するや、逸脱なんかに用はなくなる。自然は、「自然の法則」——結婚における生殖を目的とした男女の結びつき——に一致したと見なされるもの以外はあらゆる性の表現を非難する、かつての道徳家の一見論理的な論法を、背面から攻撃しているわけだ。それに、重箱の隅の隅までほじくるような道徳専門家の決疑論者たちに、自然なものとそうでないものとを区別する才があるなどとは、信用できるものではない。

そもそも自然は、自分にとってまったく意味をなさないそんな微妙な区別など気にもしないだろう。自然が発明するものはみな、当然ながら自然なものなのだから。そのうえ、自然の想像力には限りがないので、自然的なものの領域にも限界がない。あらゆる可能性のあいだに、たとえば、ビクトリア王朝的諸時代にもてはやされた厳格な態度が生む危険と、退廃期(デカダンス)につきものの腐敗の危険とのあいだに、最良の均衡を見いだすことこそ、人間の役目なのだ。各人が、何が自分にとって良いことで、しかも他人にとっても悪くないことかを、自覚せねばならない。自然にはうまい口実があり、そのおかげで、あらゆる態度、あらゆる経験、あらゆる大胆さ……さらにはあらゆるエゴイスムを正当化できる。だからといって自然は、人間が、精神と心と肉体の、つねに危うく、つねに脅かされた調和のなかで、また、その風習や文化の豊かな多様性のなかで、賢明に自らを築きあげてゆくことを免除したりはしないだろう。

 ジャン=マリー・ペルト(1995)『恋する植物』(ベカエール直美訳)p.30-31, 工作舎.

2017年2月6日月曜日

才能・能力とは:モノから「引き出す」力

一錐、二鉋、三釿。どう読むだろうか。一キリ、二カンナ、三チョウナと読む。チョウナは手斧のことをいう。この順に数奇屋大工は道具をものにしていくという教えやコツをあらわした言葉だ。……道具は手につたわる重さによって出来がちがうというのだ。……しかしカンナひとつにも多様な刃が工夫されていて、いまは写真に並んでいるような台カンナばかりが知られているが、たとえば槍カンナと棹カンナではまったく別物のようなのだ。それを大工は鮮やかに使いこなしていったのだ。

そこに業物(わざもの)が生まれる。名人・達人・鉄人がこよなく偏愛した道具たちである。業物は刀剣も含んだ。そして、そのようにすぐれた道具をもってすぐれた業(わざ)を発揚することを「才能」とか「能力」と言った。「才」とは木材や石才に宿っている力のことを言い、それを引き出す技や業が「能」だったのである。……つまり才能とか能力とかは、アタマやカラダや知能にそなわっているものではなく、素材や道具にそなわっているものを引き出せる仕業のことだったのである。大工道具たちにはその能力がギラリと光っている。

 松岡正剛(年号不明)「百辞百物百景——コンセプト・ジャパン100 022 能力」『週刊ポスト』小学館

2017年1月16日月曜日

星野道夫の世界観:「人に伝えられないこと」が人生

昔はね、子供が病気で死ぬのは珍しくなかった。子供が死ぬと親は大変なショックを受ける。あの子の人生はなんだったんだろうって思うわけです。子供が死ぬかもしれないことを共有している社会では、子供が本気で遊んでいると、このまま遊ばせておこうか、となるんですよ。ほっといてやろうと。この子の人生、いつ終わるかわからないんだから。好きにさせる。僕らが子供の頃は、生命というのは思うようにならないものでした。子供がめったに死ななくなったでしょう。そうすると、子供は大人の予備軍でしかなくなる。これくらいの教育を受ければこれくらいの学校に入って、これくらいの生涯賃金で、老後は……とすべてが将来の準備になってしまう。しかも、暗黙のうちに、自分の生命まで自分のものだと誤解されるようになってしまった。……

今はすべて情報化です。つまり伝達可能なものが主流を占めるということ。伝達可能なものを突き詰めれば、それは本物じゃないコピーです。……しかし現実を見れば、現物はどうしたって同じではない。必ずズレます。そのズレや違いを発見するのが感覚。……動物にも脳はあるけれど、「同じ」にくくる能力はほとんど持たない。感覚だけで生きていますから。感覚が何かといえば、違いがわかるということです。人間が言葉で伝達できるのは、本来は違うかもしれないものを同じものとしてひとくくりにする能力ががるからです。星野さんがやろうとしたことは、その対極にあることでしょう。アラスカで感覚を開いて、言葉になる以前のものを見ようとしたし、聞こうとした人です。だからああいう写真が撮れるんです。こういう質問をしてもいい。「人には伝えられないこと」に人生があるのか、それとも「人に伝えられること」に人生があるのか。ほとんど時間をスマホに使っている人は、「人に伝えられること」が人生だと思ってますよ。それはね、生きそびれることです。……

星野さんがアラスカに行って、フィールドに出かけていって、そこで人に伝えられるかどうかは難しい経験をした。それこそが人生なんですよ、しかも伝えられるかどうかたいへん難しいことを文章にし、写真に撮った。創造性とは、本来そういうことです。

文学というものはもともと、伝達可能性の限界を追っていたものです。「こんなことが伝えられるとは思わなかった」ということを伝えるものだった。それが文学の創造性です。その大事な部分はかなり死んでしまった。……まさかこんなことが人に伝えられるようなものになり得るとは思わなかった、というように言葉が使われるのが本当の言葉の創造性です。もうそれは諦めちゃったんじゃないですか。表現できないことを表現しようとしているとは思っていないと思う。星野さんが表現しようとしたことは、そういう伝達可能性の限界なんですよ。

 養老孟司(2016)「星野道夫の世界観を語る」,『BRUTUS』2016年9月号, p.62, マガジンハウス

2017年1月15日日曜日

稲垣足穂:タルホが放つ都会の遊星的郷愁

 「 ある夕方
 
   お月様が

   ポケットの中へ

   自分を入れて

   歩いていた 」


稲垣足穂ほどオブジェ的な趣向に徹して、文芸の工芸細工化を試みた作家は、昭和にはいなかった。その趣向は少年期に見聞体験したものに発し、それを独自の文体で磨き上げて別物にまで高めていくところにあった。こうしてプロペラ飛行機、ボギー電車、六月の都会の夜、星の瞬き、天文学、水晶、弥勒菩薩、存在の裏地、半ズボン、パンツ、お尻、男色的スリル、サーカス、壊れた機会、ジオラマ、置き去りのオブジェ、能楽、薄明の妖精たちが、タルホ認定の工芸作品に仕上がっていった。……

あえて思いきって言うのなら、タルホは1923年に『一千一秒物語』を書いたとき、デヴィッド・ボウイの何たるかを先取りしていた。ぼくはそう見てきた。そういう人なのだ。ダダイストや未来派がやりたかったこと、ハイデガーが問いたかったこと、ハイゼンベルクが不確定性原理で説明したかったこと、サイケデリックアートが訴えたいこと、観音寿夫が挑みたかったこと、そんなことはとっくに見通していた。

なぜタルホがそういう人でありえたのかといえば、まったくお金や名誉と無縁であり、自分のことを口腔から校門に向かってチューブが通っている円筒人間にすぎないとみなし、少年も文芸も官能もできるかぎり抽象的であるべきだと確信していたからだった。そして、どんな美しさも「フラジャイルで儚いもの」として表現することを選んできた。

最近の日本では、やたらに浮ついたグローバルな人材が期待されているようだが、ぼくは、あの三島由紀夫・土方巽・澁澤龍彦にとって”聖者”であった稲垣足穂こそが、都会のシルエットをまるごと遊星的郷愁とみなせるグローバルな感性の持ち主だったと言いたい。

 松岡正剛(2016)「BOOKWARE 」,『SANKEI EXPRESS』2016年1月24日, p.12, 産経新聞社

「いのり」と「ねがひ」

「いのり」が抽象だとすれば、「ねがひ」は具体である。「いのり」が無人称であるとすれば、「ねがひ」は人称的である。「いのり」がプロフェッショナルだとすれば、「ねがひ」はどこかアマチュア的だ。

 松岡正剛(年号不明)「百辞百物百景——コンセプト・ジャパン100 071 希(ねが)う」『週刊ポスト』小学館

2016年11月10日木曜日

「警戒しすぎてチャンスを失う」社会:過剰なリスクヘッジによる偶発性、創発性の摩滅

……今日の社会は「リスクを恐れる社会」になっているということだ。……それがしだいに個人のレベルにまでおよんでいる。スマホやグーグル検索を活用することを咎めたいのではない。そこに情報と知識が充填されていると思いこんで、ついつい自分で選択したり思考したりしているつもりが、そうではなくなっていってしまうことに懸念がある。とりわけ「思考のリスク」を冒すことを怖がっている。……セーフティネットはどんなことにも必要だ。ところがそんなことをしているうちに、本来は「安全の分配」のつもりがいつのまにか「リスクの分配」になり、もともとは「富の分配」をするつもりが気がついたらすっかり「リスクの分配」ばかりをする社会になってきた。……現代社会のシステムは、国家であれ企業であれ、国際機関であれ自治体であれ、みずからのシステム維持のためのコストが嵩みすぎて、新たな創発性を発揮できなくなっている。……ルーマンやローティは、これはシステムに出入りする「意味」が多重性や多様性をもてなくなってきたからだとみなし、外の現象の介入がインディケーター(因子)になりすぎているからだと解釈した。……

どんな社会システムにも、そこには相互作用と鏡像作用と相補作用がおこっている。小学校の教室が一年たつごとにかわっていくプロセスを見ればわかるように、この三つの作用は、意味を「まねる」「うつす」「わたす」を繰り返していくうちにおこっていく。世阿弥の稽古哲学もこの「まねる」「うつす」「わたす」をあきらかにした。けれどもここにリスクのメモリを入れ込み、リスクヘッジのしくみをいちいち入れていくと、三つの作用がどんどんフラットになっていく。外からのインディケーターを入れすぎると、そうなっていく。いわゆる”縛り”というものだ。それを法令で縛ればコンプライアンスになる。コンプライアンスの”縛り”が内部化されていくと、どうなるか。フラットになるだけではない。システム内のフローのどこにでもおこりうるはずだった「別様の可能性」や「創発の契機」といった可能性が摩滅していってしまうのだ。……「警戒しすぎてチャンスを失う」ということはスポーツや仕事に付きもののことであるはずなのに、社会的にはそれができなくなっているのだ。……せっかくのチャンスもオケージョンもオポチュニティも、個人の機会から遠のいていく。もっと大きな問題なのは、こんなことをしていては異質性をことごとく排除してしまう社会意識や個人意識ばかりがはびこっていくということである。ここは見方を変える必要がある。こうしてここに登場してくるのがコンティンジェントな見方なのだ。

 松岡正剛&イシス編集学校(2015)『共読する方法の学校 インタースコア』p.92-100, 春秋社

コンティンジェンシー(偶発性):社会や個人の持つ、内部からの自律的な創発力

コンティンジェンシー(contingency)という英語は日本語による説明が難しいのだが、とりあえずは「そこに偶発する別様の可能性」というふうに思っておいていただきたい。正確には「そこに偶有されていた別様の可能性の発現」というべきなのだが、ともかくも”別様”というニュアンスが重要なのだ。……システムにとって重要なことは、それが閉鎖系か開放系であるかということにある。生命や社会がつくりあげたシステムの多くは開放系である。開放系のシステムには、なんらかの情報がそのシステムの内外を必ず出入りするという特徴がある。出入りしているだけでなく、システムはそういう情報をつかって自身を自己組織化したり自己編集化する。……このような自己組織化がすすむうちに、システムに「ゆらぎ」が生じて、その構成要素が自律的な創発力を発揮することがある。そういう創発の場はしばしば「カオスの淵」などと呼ばれた。ルーマンは社会や組織の多くが、本来は自律的で自己産出的なものであろうとみなし、そこにはマトゥラナやヴァレラが言うオートポイエーシスなはたらきが主導していると見た。オートポイエーシスとは自律的な生成力のことをいう。システムは全体としてのシステムの維持だけではなく、どこかで新たなサブシステムのようなものを自律的に”分出”しているはずだとみなしたのだ。……

偶然や偶発を存在の周辺やシステムの内外の境界に秘めているのがコンティンジェンシーなのである。コンティンジェンシーには「偶然」とともに「生起」もかかわっているのだ。リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』のなかで、われわれの社会には「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」が同時多発的にかかわっているとみなし、その衰退や摩滅が世界から真の連帯を殺いでいくと見通した。そして、「コンティンジェントな言葉、コンティンジェントな自分、コンティンジェントな共同体」のありようこそが、今後の社会と個人の行動と意識に新たな可能性をもたらすのではないかとみなした。ぼくは、この見方に大きく加担する。社会も個人も「別様性」をもっていなくてどうするのかということだ。ただし、よくよく理解しておいてほしいのだが、これはオルタナティブなオプションを用意しておくということではない。システムや個人の内部に発現の可能性があるということだ。受精卵に針でつついた刺激があると、そこから別様の発生や分化がおこることを高校生物の授業で習った記憶があると思うけれど、まさにそういう内部発生型の別様可能性なのである。……

……認知言語学者のドナルド・デイヴィッドソンは、コンティンジェンシーを理論的に扱うには「パッシング・セオリー」(つかのまの理論)のようなものがきっと必要になるだろうと提案した。炯眼だった。コンティンジェンシーや「偶然のいたずら」の様子は、たしかに「つかのま」の様子をあらわす感覚的な要因によって扱うしかないようなところがあるからだ。パッシングなものとは何か。ひらめき、つまずき、脇見、乱用、誤用、とっさの発言、らしさ、思いつき、ニュアンスのはこび、ひょんな沈黙……などなどがパッシングなものだ。これらは一つひとつではときにノイズや接続詞や役立たずなもののようであるが、あるときこれらが急に組み合わさって、その場のコンティンジェンシーを成立させていく。

 松岡正剛&イシス編集学校(2015)『共読する方法の学校 インタースコア』p.92-102, 春秋社